深川における芭蕉

櫻井 康敞

江東区の歴史と文化を継承する会 発行の『水彩省』より
筆者のご了解を得て転載いたしました

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深川における芭蕉 (その一)             

はじめに
 昨年七月の例会で、俳句について基本的なことを話した。興味が湧くように芭蕉が深川に移住した時と、石田波郷が終戦直後に砂町へ引っ越して来た頃の情景が、目に見えるように二人の四季の俳句を挙げて話をした。深川における芭蕉については、一般的には「古池や蛙飛込む水の音」を作ったことと、ここから「奥の細道」へ旅立ったことを知っているのが大半であろう。水彩都市江東区を飾る俳人芭蕉が深川の侘住居で、どの様な暮していたのか、改めて訪ねて、芭蕉さんと会話をしてみたいと、その時、脳裏をよぎった。年譜や書簡および俳句と俳文をたよりに、より身近な芭蕉のイメージを描いてみたい。
 
移住先を深川にしたこと
 芭蕉が深川に住み、俳諧活動をしていたのは、事実として知っていることであるが、それでは何故、深川の地を選んだのか、それは芭蕉の希望だったのか、私が触れた文献等には書かれていない。あたかも既に決めてあったが如く、延宝八年(一六八○)の冬に深川へ移住して来た。
 深川移住の動機については、研究者の考証があり、それについては触れるのが目的でないが、現実的な問題と内面的な問題を同時に解決したのが、深川移住と書いておく。この問題については、横浜文孝氏の火災説では当時、日本橋という繁華街に住んでいて、火災により焼け出されたという。新しい俳諧への希求が兆して来て、その模索している中、当面の住居問題を解決するために、杉山杉風の奨めにより、深川がたまたま選ばれたという説が私にとって一番実感がある。江東区に住む者にとっては光栄であった。深川移住によって芭蕉の名を得て、江東区の文化拠点の一つとして、芭蕉記念館を持つことが出来た。

 深川がたまたま選ばれたと書いたが、横浜氏の火災説に傾いているのは、日本橋界隈が火災に遭い、芭蕉も焼け出されているのだから、もし、同じ様に日本橋界隈に住みたいと考えても、日本橋の復旧を待たねばならず、当面、雨露を凌ぎ冬の寒さを防ぐ住居が必要となる。そこで後援者で弟子の杉山杉風が深川の生簀番小屋を提供し、暫くここで町の復旧を待って下さい。とでも云ったのであろう。

 内面的な動機から深川へ移居したならば、深川という場所柄を知っていて、新しい俳諧活動に関して、自分の心境に合うか判断していなければならないだろう。深川という土地の知識は杉風から得ていたかも知れないが、芭蕉が自ずから深川移居を決定したとは、納得できないからである。むに止まれず、一時避難的に深川に棲んだというのが、実態に近いだろう。

 横浜文孝著『芭蕉と江戸の町』において「深川と環境と芭蕉庵定住」の中に、延宝五年(一六七七)の『江戸雀』に載っている「三俣」の記述を紹介している。もしことを芭蕉が知っていて、杉風の話と合わせて、深川という地に対して想像を巡らせ、新しい俳諧の境地に合うのではないかと、考えていたとすれば、内的要因も一つの根拠になるが、では何時実行に移すかという問題がある。時間的余裕があるならば、杉風が春になって生簀番小屋を改装し、草庵にするのでそれまで待って下さいとでも云ったであろう。冬の最中に急遽転居しなくともよいではないか。ここは矢張り切歯詰った事情、つまり住居問題で移住しなければならなかったと、考えるのが自然であろう。

 以上は、『芭蕉と江戸の町』を参考にして、芭蕉の深川移居選定について、若干の蛇足を加えてみた。

 その当時の人達には気の毒なことであったが、明暦三年(一六五七)の大火のために、江戸市中が殆ど壊滅状態となり、防災都市計画として、本所深川地区の開発が促進された。もしこの大火災がなかったならば、深川地区の都市開発が遅れて、芭蕉の時代とタイミングが合わなかったかもしれない。

 水彩都市江東区にとって幸だったことは、芭蕉という偉大な俳人の下に、篤実な弟子で後援者でもあった杉山杉風がいて、深川に生業の生簀を持ち、その番小屋があったことである。
 歴史上の偶然と必然の織りなす不思議さは、昭和時代の石田波郷にもいえる。北砂町の吉田愛嬉子との見合いで結婚したことが、江東区との縁となった。そして昭和三十三年、練馬区谷原町に移るまで、波郷の俳業の中心となる活動をした。その縁により砂町に石田波郷記念館を持つことができたのである。


深川における芭蕉 (二)

  前回は横浜文孝氏の「火事被災説」によって芭蕉の深川移住の動機を書いた。俳諧点者生活に疑問を感じ、荘子の世界に共鳴した芭蕉(当時は桃青)は、いづれ隠遁生活に入ることは必然であったであろう。しかし、それを何時、実行に移すかという決意までに達していなかった。それが火災により住居を焼失し、代替えの家を求めるにも難しい状況であったことが、杉風の勧めによって深川移住への決意を促したと考えたい。深川に住んでみて、その環境が意に適って、真の俳諧に打ち込める状態になったのであろう。

 寛文十二年(一六七二)二九歳の時、芭蕉(宗房)は三十番発句会『貝おほひ』を自撰し、伊賀上野の菅原社に奉納した。自序には「寛文拾二年正月廿五日 伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒にしてみづから序す」とあり、江戸下向の意志は固まっていたと思われる。

 この年に芭蕉は江戸に下向したが、当初の三年間の消息はほとんど不明である。
 延宝三年(一六七五)芭蕉三二歳の時、大阪から東下した談林派の中心人物、西山宗因を歓迎して俳諧百韻が興行され これに加わり、桃青の名が初出する。この時の一座に、一生の友となる信章(山口素堂)も加わっていて、お互いに意気投合したのであろう。
 また、この頃に榎本其角が入門している。延宝期には、松倉嵐蘭、杉山杉風、服部嵐雪といった、後の蕉門の中心となる人々が芭蕉の下に集まって来ている。

 この年の五月に『貝おほひ』を出版し、江戸における俳諧者としての地位を確立しつつあった。
 同じ年の発句に「年は人にとらせていつも若夷」という才気のひかるものがあるが、伊賀上野宗房となっているので、江戸に来て作られたものではなく伊賀時代に作った「年や人にとられていつも若えびす」を推敲したものである。江戸に来て初めて撰集に載った発句は次の二句である。
    町醫師や屋敷がたより駒迎
  針立や肩に槌打つから衣
 一句目は、上級武家屋敷から町医者を馬で迎えに来たという情景で、晴がましい光景をおかしく作りなした句であるが、屋敷内での秘密が窺われる。二句目のは針立が按摩の鍼立で、槌打つから衣は砧打つという、中世の雅の世界から巧みに俗の世界に転換したものである。ここにも芭蕉の才気が感じられよう。
 延宝四年(一六七六)には、山口信章(素堂)と天満宮奉納二百韻を興行している。談林派への傾倒を一層強くして、江戸における俳諧生活を謳歌しているようだ。

 同年六月、伊賀に帰郷し、七月初めには江戸に戻っている。この短期間の帰郷は、重要な用件が郷里にあったのではないかと、想像していた処、『芭蕉―その人と作品―』を読んでいたら、田中善信氏の「芭蕉・寿貞・桃印」の中に、この様な記載があった。〈当時、藤堂藩の藩法では他国に働きに出た領民は、出国した後、五年目には一度帰国して役所に出頭することが義務づけられておりました。芭蕉も寛文十二年(一六七二)に江戸へ出て、五年目にあたる延宝四年(一六七六)には藩法に従って帰郷しております。〉急いで江戸の戻ったのは、江戸における俳諧者としての地位確保維持のためであったのであろう。

 延宝五年(一六七七)から延宝八年(一六八○)の四年間、小石川上水道の工事関係に従事しているが、この間も俳諧活動を活発にしている。延宝五年から六年の初めの頃に 宗匠立机をして、プロの俳諧師として 点者生活に入っている。延宝八年冬、深川に移住するまでには、俳諧点者として江戸でも有数の一人となっていた。


 延宝八年冬、深川に移住するまでの間、江戸で詠んだ句を挙げて、深川移住以後の蕉風へ続く軌跡の一端を見ることにする。
 
延宝四年(一六七六) 三三歳
   天金平や京江戸かけて千代の春
 言語遊戯であるが、新春の喜びが横溢している。天秤を取れば、現在のテレビや新聞記事の初詣の光景が浮かんで来るだろう。
 
   命なりわずかの笠の下涼み
 「佐夜中山にて」の前書があり、西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中山」を踏まえている。西行の「命なりけり」の重さを、わずかの笠の下と軽く転じているが、西行への共感の心持ちは出ている。
 
   夏の月御油より出て赤坂や
 私の好きな句の一つである。夏の夜の短さ、夏の月のはかなさを、
東海道の最も短い宿場にかけている。この句の裡から漂ってくるのは、浮き立つような、ほのめくような情趣の揺曳である。このような句を見ると、芭蕉も相当多感な青春を過ごしたのでないかと、つい思いたくなる。
 
 延宝五年(一六七七) 三四歳
   門松やおもへば一夜三十年
 一夜明けたら新年、それに三十年の来し方を重ねたところに、芭蕉の実感が詠み込まれている。三十年から「初蝶やわが三十の袖袂 波郷」がふと過った。さらに「去年今年貫く棒の如きもの 虚子」をも思い起こさせた。論語の三十而立を意識している。
 
   猫の妻へついの崩れより通ひけり
 伊勢物語を底にした機知の句である。現代人が真面目に作ってしまう危険性がある。
 
   梢よりあだに落けり?のから
 「あだに落ち」が談林調であるが、飛躍もなく面白味が足りない。
初心者ではこれに近いような写生句を作ることがある。
 
   あら何もともなやきのふは過てふくと汁
 あらなんともなやという謡曲の言葉を使って、河豚汁を食べて無事だったことを、大袈裟に作りなした面白さである。言葉遊戯であるが、この様に自在に言葉を操ることが出来る言語感覚が、蕉風になってから冴えて来るのである。
 
延宝六年(一六七八) 三五歳
   かぴたんもつくばばせけり君が春
 かぴたん(甲比丹)は長崎出島におけるオランダ商館長。つくばばせは蹲わせること。新しい素材に徳川の御世を詠み込んだ。新しいものに興味を持っていて、最後の旅には九州へ渡りたいという願望を持っていたと、憶測されるのである。
 
   實や月間口千金の通り町
 日本橋通り町周りの繁栄を詠んだもので、春宵一刻価千金を換骨して、間口千金と土地の高値を言った所と、實や月と大仰にいっているのが談林調で、主への挨拶句となっている。また、江戸の経済の中心日本橋への讃美ともなっている。
 
   色付や豆腐に落て薄紅葉
 これは紅葉豆腐という豆腐料理を詠んだもので、うす紅に色づいた紅葉の落葉の見立である。色彩感覚が優れていて、最晩年の「清瀧や波にちり込青松葉」を思い起させる。
 
   塩にしてもいざことづてん都鳥
 有名な「名にし負はばいざこと問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと」によっている。鷹狩して初めて獲った鶴を塩づめにして、早飛脚を仕立て将軍家から朝廷へ献上していることを、芭蕉も知っていたのだろうか。
 
延宝七年(一六七九) 三六歳
   発句也松尾桃青宿の春
 内容的にはどういうこともないが、新進俳諧師としてまさに意気天を衝く気慨を、自分の名前まで詠み込んで、新春を寿ぎ謳歌している。
この様にほとんど無内容なものを、言葉の斡旋でおかしく仕立てるの
が、談林調の特徴である。
 
   阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
 馬に鞍は謡曲「鞍馬天狗」に拠っている。映画の「鞍馬天狗」で聞いたことがあると思う。カピタン一行が、桜の時期の花のお江戸に来
たということを視覚的に詠みながら、自分達もという浮き立つ心を暗示している。芭蕉の新しがりは相当なものである。初めは素材の新し
さであったが、後年は内容の新しみを追求するようになった。
 
   今朝の雪根深を薗の枝折哉
 枝折は山路を行くときの目標として、木の枝を折って置くことで、雪の中から葱の先が出ているのを、枝折と見立てた句である。白と緑
の色彩の対比で新しみを出している。
 
延宝八年(一六八○) 三七歳
   於春々大ナル哉春と云々
 季節の春ではなく、新春のことである。漢文調を取り入れて語調の上で、新しみを出そうと試みている。
 
   蜘何と音をなにと鳴秋の風
 枕草子を下敷にしているものの、自分自身に問いかけている点が、今までにない作風である。談林調に懐疑しているかのようだ。
 
   花むくげはだか童のかざし哉
 画讃の句であるが、属目の句といっても通るだろう。桜をかざす大宮人に対して、村童には花木槿が相応しいと仕立ている。この句は「も
もしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ 山部赤人」を下敷にしているが、後年の「道のべの木槿は馬にくはれけり」に通
うものがある。
 
   愚案ずるに冥途もかくや秋の暮
 上五の口調が談林調であるが、中七以下に内省的な思いが籠っている。「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」「いづく霽傘を手にさげて帰
る僧」など、枯淡で沈潜した情趣を詠もうと工夫している。
 

 芭蕉が江戸に入ってから深川に移住するまでの句を、相当に荒っぽく駈け足で見てきたが、最初の談林俳諧への心酔ぶりから次第に内省
化し、言葉の遣い方に談林調は残ってはいるものの、相当沈静されつつあることに気づくであろう。それは蕉風の兆しである。
 延宝八年冬、芭蕉は深川に移住するのであるが、この変化の兆し、つまり談林調への懐疑から新風への模索と、隠遁生活への憧憬が強くなったことが、深川移住の直接の動機とはなっていないと推測され、またそれについての句や俳文および手紙等もないので、専門家による研究対象となるのである。

 新しい俳諧に対する何かが見えてきた芭蕉は、当然のことながら生業の宗匠点者生活に懐疑的になったであろう。隠遁閑寂の生活に入るにしても、その場所を何処にするか、また実行するにしても種々問題を抱えていた筈である。それを足元から揺さぶり、否応なく実行に移さざるを得なくなったのは、横浜文孝氏の火事被災説であると、何か確固たるものとなっているが、そのことを調べるのではなく、この江東区の深川に住んだ芭蕉が、どの様な句を作り、どの様な活動をしていたかを、会員諸氏と一緒に芭蕉さんに蹤いて歩き、より身近に感じることが目的である。
<この項 了>
 
 
【参考文献】

 「江戸の四季」続編、江東区文化財の散歩道、松尾芭蕉の書家という一面をみた
 1 江東区史:江東区
 2 江東区の文化財:江東区教育委員会
 3 江東区の民俗 城東編 深川編:江東区教育委員会
 4 下町文化 探訪:江東区教育委員会
 5 江戸時代:大石慎三郎  中央新書
 6 年中行事・儀礼事典:川口謙二、池田孝、池田政弘  東京美術
 7 朝日新聞「暮らしの風」2003年1月号: 朝日新聞社
 8 朝日新聞2002.7.9朝刊:朝日新聞社
 9 尾形光琳 新潮日本美術文庫:新潮社
10 名品百選:東京国立博物館
11 こんなに面白い東京国立博物館 とんぼの本:新潮社
12 東京国立博物館ガイド 東京国立博物館:東京美術
13 東京国立博物館資料館
14 平成15年歳次癸未:香取神社
15 芭蕉:饗庭孝男:集英社
16 芭蕉の書と画:岡田利兵衛:八木書店
17 奥の細道(岩波文庫):松尾芭蕉  岩波書店
18 江東区ゆかりの人びと「松尾芭蕉の地を歩く」:
         エル KOTO2001年4月No.227      (財)江東区地域振興会
19おくのほそ道 永遠の文学空間:堀切 実    日本放送出版協会
 
園女さまへ
1 定本蕉門の六十六人:山川安人著
2 俳諧師園女の生涯:ジャンボール・絹子著
3 江東区の文化財:江東区教育委員会
 
深川における芭蕉(一)
  1 芭蕉年譜大成:今 栄蔵著  角川書店
  2 深川文化史の研究 上:深川文化史研究会 江東区総務部広報課
  3 芭蕉必携:尾形 仂編   學燈社
  4 芭蕉ハンドブック:尾形 仂編   三省堂
  5 松尾芭蕉(江戸人物讀本A):楠元六男編  ぺりかん社
  6 近世俳句俳文集(日本古典文学全集 42):栗山理一他校注・訳者  小学館
  7 芭蕉文集(新潮日本古典集成 第十七回):富山秦校注   新潮社
  8 芭蕉と江戸の町:横浜文孝著  同成社
  9 芭蕉=二つの顔:田中善信著   講談社
10 図説 江戸の芭蕉を歩く:工藤寛正編  河出書房新社
11 芭蕉庵桃青の生涯:高橋圧次著     春秋社
12 芭蕉俳句集(文庫版):中村俊定校注      岩波書店
13 芭蕉と門人たち:楠元六男著     日本放送出版協会
14 芭蕉の門人(岩波新書):堀切 実著  岩波書店
15 石田波郷全集 別巻:石田波郷著  角川書店
 
深川における芭蕉 (二)
 1 芭蕉年譜大成:今 栄蔵著   角川書店
 2 芭蕉庵桃青の生涯:高橋圧次著   春秋社
 3 松尾芭蕉(新潮古典文学アルバム18):雲英末雄編集・執筆  新潮社
 4 図説 江戸の芭蕉を歩く:工藤寛正編  河出書房新社
 5 松尾芭蕉(江戸人物讀本A):楠元六男編  ぺりかん社
 6 芭蕉必携:尾形 仂編  學燈社
 7 芭蕉ハンドブック :尾形 仂編   三省堂
 8 校本 芭蕉全集 第一巻:阿部喜三男校注  富士見書房
 9 山本健吉全集 第六巻:山本健吉著    講談社
10 芭蕉俳句集(文庫版):中村俊定校注   岩波書店
11 芭蕉文集(新潮日本古典集成 第十七回):富山 奏校注  新潮社
12 芭蕉書簡集(文庫版) :萩原恭男校注  岩波書店
13 芭蕉連句鑑賞:高藤武馬著  筑摩書房
14 詩人の生涯 芭蕉の本 第二巻:加藤楸邨編  角川書店
15 芭蕉―その人と作品―:江東区芭蕉記念館編  江東区芭蕉記念館
16 新編 俳句の解釈と鑑賞事典:尾形 仂編  笠間書院
17 芭蕉と門人たち(文庫版):楠元六男著   日本放送出版協会
18 芭蕉の門人(岩波新書):堀切 実著  岩波書店
19 俳諧随筆 蕉門の人々(文庫版):柴田宵曲著  岩波書店
20 江戸俳句夜話(文庫版): 復本一郎著  日本放送協会
21 俳家奇人談・続俳家奇人談(文庫版):雲英末雄著   岩波書店
22 風俗文選(文庫版):森川許六著・伊東松宇校訂 岩波書店
23 芭蕉と江戸の町:横浜文孝著    同成社
24 近世俳句俳文集:阿部喜三男・麻生磯次校注  岩波書店
25 新芭蕉講座 第一巻―発句篇[上]―:穎原退蔵・加藤楸邨・矢島房利著 三省堂
26 古文書にみる江戸時代の村とくらし@鷹狩り:江戸川区教育委員会  江戸川区教育委員会
                                                                    社会教育課文化財係編