中原郁生遺稿「平家物語探訪」
中原郁生遺稿集:「平家物語探訪」より抄出連載

中原郁生(1929-2001):元下関市立長府図書館長、郷土史家、「文学歳時記」など著書多数

リライト:武部忠夫
写  真:青木紀雄
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■第一話 祇園精舎のシャラの樹
 「平家物語」序文の秀逸は単なる韻律だけでなく、わずか二文節で人々の耳目を覚醒させる点にある。「祇園精舎の鐘の声」と「沙羅双樹の花の色」は、耳を澄まさせ、眼を注がせるのだ。沙羅双樹の花の色は、釈迦入滅のとき白色に変じたという。この名文を口ずさむと、僧侶集団の朗々たる読経の声が鎮魂ミサ曲のように、胸をゆさぶって聞こえてくるから不思議である。平家の亡霊を弔うように、またさとすがごとく、潮の流れのように寄せては返しこだまする。祇園精舎はインドの北部、ネパール国境に近いガンジス川の支流、ラプチ川の上流にあったといわれ、遺跡も発見されたといわれる。

 さて、シャラの樹はインド原産の名木である。釈迦が最後の説教をし、いよいよ涅槃に入った。その寝床の四辺にあったのがシャラの樹で、ひとつの根から幹が二本ずつ出ていた。もともと黄色の花をつけるのだが、釈迦の死を悲しみ二株の木(双樹)になり、白い花をひらき落花してその遺体を覆いつくし、のちに樹は白変して枯れたといわれる。盛者必衰のゆえんである。お寺でよく見かける涅槃図には入滅の釈迦が横臥し、回りに弟子、動物が寄り添い、天上からは摩耶夫人(釈迦の母)が迎えに来ている。その定番の構図の中に、沙羅双樹が描かれている。シャラの樹は常緑樹で、高さは30bにも達し、チーク、ヒマラヤスギと並ぶインド三大名木の一つ。花は淡黄色で芳香があり、夕べに咲きはじめ、翌日に散る短命の小花である。

 ところで日本では、沙羅双樹と呼ばれるナツツバキが寺院や園芸愛好家の庭に植えられ、真正のインド産シャラの樹と混同されていることが多い。わたくしは新聞の片隅の記事で日本のシャラの樹について、実に貴重な証言を得た。平家物語探訪の不思議なめぐり合わせである。次の機会にそのことをお伝えしたい。

写真:関門海峡沿いに建つ安徳幼帝と二位尼像
           平家物語序文が長門本で刻まれている
第ニ話 沙羅双樹とナツツバキ
  前稿で「平家物語」序章で語られるインド原産のシャラの樹が、日本ではナツツバキと混同されることが多いと述べた。ナツツバキはツバキ科で白色のツバキに似た花をつけるが、インド原産のシャラの樹はフタバガキ科でありまったく別種、花も小さく淡黄色である。『花の文化史』(松岡修著)によれば「ナツツバキの名は、夏にツバキのような白い花を開くからで、一名シャラノキまたはサラノキとも呼ばれている。これはこの木をインド産のシャラノキ(沙羅樹)と間違ったことに基づくものである」と説明している。インド産のシャラの樹は熱帯植物だから、日本では育たないという理由はもっともだ。しかし、見ることができないといわれれば、どうしても見たいというのが人の心情でもある。その結果として、日本ではナツツバキが、代用のシャラの樹にすり替えられ登場したものと思われる。

  さて、平成8年5月14日付の朝日新聞「声の欄」で次のような衝撃的な記事を見た。「---沙羅双樹が佐賀県小城町の清水観音の本堂前にあります。十一代佐賀藩主の鍋島直大(なおひろ)公が原産地インドから取り寄せ、植えたと伝えられています。寒さに弱いこの木が星霜を経て奇跡的に生き残り、今では高さ20bほどに成長し毎年5月に花を咲かせます。今年は寒の戻りで満開は下旬になりそうです。花はかれんな五弁で淡黄色。緑の広葉の間を埋め尽くすように咲き乱れます。そのふくいくたる香りはとても神秘的で、めい想を誘ってくれます。また風もないのに、しんしんと雪が降るように花が散るさまも絵になります。私はこの双樹の気品に魅せられてのめりこみ、毎年写真を撮り続けるのを生きがいにしております。平家物語同好の皆様、今年ももうすぐ咲きます。幻の花を求めて出かけてきませんか。」(鹿島市 河本尋匡 81歳)
  じつにふしぎな貴重な証言とのめぐり合いだ。今までの定説をくつがえすかもしれない。平家物語ファンにとっては興味が尽きない。
【写真】:戦災で周囲を焼損、辛うじて焼け残った
             「平家物語」長門本(全20冊)  重要文化財・赤間神宮所蔵
第三話 「鱸」(すずき)
 「平家物語」は陰陽師の洞察力が運命の吉凶を読む。巻第一に「鱸」という小話がある。スズキ科の浅海魚。清盛が政権につく以前のこと。熊野神社参詣の途中、船に大きなスズキが躍りこんだ。修験者が「めでたいことです。中国の故事にもこれに似た吉兆があります。きっと熊野権現のご利益に違いない。急いで食べてください」とすすめたので、清盛はじめ一族が食べたところ、それからというもの平家に次々と吉事が続いて繁栄したという話である。

  スズキは「セイゴ」→「フッコ」→「スズキ」と名を変える出世魚で、体型の美しさには王者の風格がある。味も抜群。貝塚から骨が発見されているので、古代人も賞味したことがわかる。有名なのは宍道湖でとれるスズキを、姿のまま奉書紙で蒸し焼きにした「松江の奉書焼」があるが、とくに旨味がのる夏のアライは最高で「絵に描いてでも食え」といわれている。スズキの「スズ」は清し(すずし)という意であり、「キ」も清らかを表す語で、つまり肉がすずしく清らかという名称であるから、神魚としての故事も多く、伊勢神宮や松江の売布神社の神饌にも用いられている。

  平家物語と直接関係はないが、下関の北浦海岸に幕末の若い公家中山忠光にまつわるスズキの話が伝えられている。明治の終わりの頃、正直者の漁師権郎(ゴンロウ)が亡霊の忠光を島に送迎すると、礼をしたいので望みのものを申せといわれる。権郎は「わたしは漁師なのでスズキさえ沢山釣れれば幸せで、ほかに望みはありません」と正直に答えた。武者姿の忠光は、海を指さして、あそこで釣るとよいと言い残し、生首をさげて松林の中へ消えて行った。(松林には忠光を祀った中山神社がある)漁師の権郎は、教えられた海でスズキの大漁をつづけ、幸せになったと伝えられる。
【写真】:スズキ[鱸]スズキ科 
            分布 日本各地大きさによって名前が変わる出世魚
            セイゴ30cm前後、フッコ50cm前後、スズキ80cm前後 
第四話 「鹿ヶ谷事件」
 平家物語には、前稿「鱸」の巻で初めて清盛が登場する。出世魚を食した霊験どおり、平家一門は栄華を極めた。清盛登場からわずか10年で「平家にあらざれば人にあらず」と言われるほどの権勢を誇った。その奢りが都人のヒンシュクを呼び、反平家の火種がくすぶり始める。背景には後白河(法皇)と清盛の対立があった。そして、平家物語最大のドラマとして能舞台・歌舞伎などで伝えられる俊寛の悲劇のプロローグ「鹿ヶ谷事件」が起こった。

  京都東山の山腹鹿ケ谷(ししがたに)の僧・俊寛の山荘。後白河を中心に丹波少将成経、平判官康頼(へいほうがんやすより)、俊寛らが平家打倒の謀議をひらいた。参画した一人が清盛に密告して斬首・流罪となった。成経、康頼、俊寛らは、遠く南海の孤島[鬼界ヶ島](硫黄島ともいう。鹿児島から船で4時間)へ流される。その途次、瀬戸内海を西下し時化で立ち寄った所が、周防室積(むろずみ、光市)の港である。

 さて、巻第二の物語を読み進むうち「康頼祝詞」の章で私は大きな衝撃を受けたのである。「康頼はながされける時、周防の室積にて出家してげり。法名をば性照とこそついたりけれ。出家はもとよりの望みなりければ/ついにかくそむきはてける世の中を/とく捨てざりし事ぞ悔しき」(出家はもとからの望みだったので、早く捨てなかったことが残念だ)

  いまから40年も前の若き日、光市室積の「普賢寺」を訪れた際、たしか平康頼という石碑を見た記憶が、この原文に触れて、とつぜん脳裡によみがえったのである。早速、普賢寺に赴き探したところ、やはり思い出の碑は建っていた。当時は説明板もなく、私自身「平家物語」に関心が薄かったので興味を持たなかった。しかし、現在は重厚二層の山門の脇に石碑は安置され、克明に由縁が記されている。

  康頼を調べながらつくづく思った。「平家物語」といえば、勇壮な戦記文学として華美な場面に眼を奪われがちだ。しかし、島流しの俊寛一行が室積に上陸し、康頼がこの地で出家し和歌を詠んだことを思うと、万感胸にせまり、これらの心情があまり人に知られていないのが、残念である。
【写真】:普賢寺 左右に仁王像のある重層の楼門

[追記] 中原郁生さんの原稿に導かれて、武部・青木が普賢寺に取材した。収穫の多いミニ・ツアーだった。ITライフの効験あらたか。機会があれば愉しき取材紀行をご披露したい。
第五話 「俊寛の悲劇」
  承前。孤島に流罪された三人のうち、とくに康頼について「平家物語」は「卒塔婆流」「蘇武」の章で、その敬虔な信仰心を詳らかにする。あまりの故郷恋しさに、中国の故事にあるように千本の卒塔婆を作り、梵字とともに望郷の和歌を記して「せめて一本なりとも都に伝えてくれ」と海上に流した。そのうちの一本の卒塔婆が瀬戸内海を溯って厳島(宮島)に流れつくという奇瑞(きずい)が語られる。

  さて「船も通わず、人は稀、山は火と燃え、硫黄満つ」といわれた絶海の島に、俊寛・康頼・成経らが暮らしておよそ1年半、京都では中宮懐妊(のちの安徳帝)による安産祈願のため、特別の大赦があり流人たちの罪も解かれることになった。波路はるかな「鬼界ヶ島」にも特赦の船が着いた。朗々と役人が読み上げる「赦(ゆるし)文」の中に、三人のうち康頼・成経の名はあったが、しかし俊寛の名はなかった。清盛は、かつて俊寛に目をかけた分だけ、その裏切り行為を許さなかったといわれる。                  
  絶海の孤島に、ただひとり残される俊寛。島を離れ行く船に向かって狂乱の限りを尽くす。まるで母を慕う子供のように「砂浜を足摺(あしずり)し、船の綱にとりつきすがり、ついに遠ざかる船を追い、高き所に走り上がり、涙にくれて沖の方をぞ招きける」。平成8年5月、名優中村勘九郎は風雨注意報直下のこの硫黄島(鬼界ヶ島)で、「俊寛」の悲劇を野外舞台で再現した。新聞記事は、上演の瞬間だけ風雨は止み、不思議な体験だったと伝える。

  清盛が俊寛を許す気になれなかったのは、身分の低かった俊寛を、清盛が特別に眼をかけ出世することができたのに、後白河法皇の信任を得て増長し平家打倒の推進者となったこと、つまり恩を仇で返したことに激怒したわけだが、俊寛はそれほど反省はなかったようである。さらに康頼と成経は孤島においても神仏への厚い信仰を怠らなかったのに、俊寛は僧侶の身でありながらふてくされて礼拝にも加わらなかったので、読者としても、それこそ仏の罪、因果応報と思うのは当然である。その傲岸不遜の俊寛が、いよいよ船が出ることになると狂ったように泣き叫ぶのだ。それは人間の弱さをさらけ出した極限の悲痛な魂の叫びであり、もうここでは読者も彼を因果応報だと責める気はなく、俊寛の激しい苦痛、慟哭が、わがことのように痛ましく感じられるのである。
【写真上は俊寛像    写真下は俊寛堂】

  俊寛の物語は、能舞台で演じられ、近松門左衛門、菊池寛などが劇化、まだまだ涙をしぼる後日談がある。
  
第六話 「俊寛の墓と有王伝承」  

絶海の孤島に、一人置き去りにされた俊寛はその後どのように過ごしただろうか。その悲劇の人物を1年後に目撃した者がいる。「平家物語」巻三の有王の章の証言。その昔、京都にいたころ、俊寛が可愛がり召し使っていた童子に「有王」という少年がいた。鬼界ケ島の流人が都に帰ると聞いて出迎えに行ったが、俊寛の姿はなかった。有王はがっかりした。主人が気の毒でならない。有王はそこで島まで訪ねて行こうと決心する。奈良に隠れ住む俊寛の娘(12歳)に会い、父親宛ての手紙を書かせた。有王は、その手紙を元結の中にしのばせ、難波の港から2ヶ月を経て鬼界ヶ島に辿りつくのだ。

島に上陸し人影を探すこと数日、ある朝「髪は空を突き、からだに藻屑巻きつけ」よろよろと渚を歩む、変わり果てた主人・俊寛を見つける。二人はひしと抱き合って再会を喜び涙にくれた。有王は、元結から手紙をとりだし、北の方(俊寛の妻)も一人息子も他界し、今は姫君ひとりとなったことを涙とともに伝えた。

 
   この話を聞いた俊寛は、もう生きるはりもなくなり、ついに食を断って念仏を唱えながら、有王が島に着いて二十三日目に、37歳の命を終わってしまう。有王は泣きながら荼毘に付し、骨を拾って首にかけ、再び都に戻り、俊寛の娘に一部始終を語ると、高野山で出家、諸国を行脚して俊寛の菩提を弔ったというのである。有王は俊寛の物語を語り広めた格別の霊力をもった人と、民俗学の泰斗柳田國男は位置づけている。

 俳優中村勘九郎の現地上演体験記によると、喜界ヶ島にはもちろん隣の島にも「俊寛の墓」があるという。昭和49年3月23日付け新聞に「俊寛没の地−本家争い三つどもえ」の記事が掲載された。それによると、「鹿児島県・喜界ヶ島」「佐賀市・法勝寺」「長崎県・伊王島」の三ヶ所である。昭和51年佐賀国体用パンフレットには「葉隠れだけではありません。俊寛のロマンもありますよ」とPRすることになったと伝えている。                                       

 

  ところで、柳田國男も指摘しているが、その俊寛の墓は、山口県にも現存している。場所は長門市湯本温泉、大谷山荘の隣、雑木の中に宝印塔(ほうきょういんとう)が祀ってあり、これが墓だといわれている。もひとつ、別の考証もある。この墓は萩焼の開祖・勺光(しゃくこう)の墓という説もあり、李勺光は朝鮮語で「シャムカン」と読み、俊寛(シュンカン)と音が混同されたという考え方である。新聞記事の三つどもえの本家争いを論評するか、萩焼のルーツを目標に調べていくか、大いに迷うところである。


第七話「平家都落ち・二宮(守貞親王)」
  平家が政権を掌握しておよそ16年、清盛の高熱病死によって、平家一族は急坂を転げ落ちるような受難の日々が続いた。北陸から京都をめざした木曽義仲の蛮勇に怯え、寿永2年(1183)7月自ら住家に火を放ち、騒然たる京都をあとに平家一門の「都落ち」が始まる。後白河法皇という巨魁の存在と平家一族の確執が圧巻だ。平家の都落ちには安徳天皇と三種の神器は不可欠だった。しかも皇太子として二宮(守貞親王)も奉じた。法皇は義仲を頼って一時比叡山に姿を隠した。この時期、京都は天子不在の空白期となった。法皇は、平家に安徳帝および三種の神器を返すよう求めるが平家は応じなかった。

 

  「法皇は主上ならびに三種神器、都へ返しいれ奉るべく由、西国へ院宣を下されたりけれども、平家用い奉らず」(巻第八「山門御幸」)。さらに、高倉院の皇子は安徳帝のほかにお三方がいらっしゃった。二宮は皇太子にし申そうとして、平家がお誘いして西国へ落ちられた。三宮、四宮は都にいらっしゃった−と平家物語は伝えている。この文章を一読して、はてな、と思うことがある。その問題点を指摘して話すと、聞く者は、一様にしてその疑問を感じ興味を抱く。

  平家最後の舞台壇ノ浦の沖で、安徳幼帝が二位尼に抱かれて入水されたことは誰もが知っている。しかし、皇太子として第二皇子も都から連れ出されていたということは、ほとんど知られていない。では、その二宮はどうされたのか。その解答は巻第十一「一門大路渡し」の章にごく簡単に記されている。「さる程に、二宮かへりいらせ給ふとて、法皇よりお迎へに御車を参らせる」。つまり、幼い二宮も安徳天皇とともに平家一門の者たちと苦労を重ねながら、最後は壇ノ浦合戦にも同道。運よく助かり無事に都に帰ることができたわけで、そのことを知った後白河法皇がお迎えの車を出されたというのである。ちなみに、二宮は守貞親王といわれ、その皇子は第八十六代後堀河天皇になられた。

 

 先に述べた天皇空白期、後白河法皇は天皇を決定するべく、都に残った三宮、四宮を呼ばれた。二人とも四、五歳の幼児である。三宮は祖父にあたる法皇を見るや泣き出したので、法皇は機嫌を損ねた。次に四宮が呼ばれたが、少しも恐れず法皇に近づき膝の上に乗ってにこにこしている。法皇は涙を流し、さすが私の血を引く可愛い孫であると喜ばれ、その結果四宮が天皇の位についた。これが第八十二代の後鳥羽天皇である。

 

  天皇は資性英邁、とくに歌人として有名で「新古今和歌集」の編纂に尽くされ、書道、管弦など芸道にも秀でておられたが、鎌倉幕府打倒を企て失敗。隠岐(写真)へ流され、在島19年失意のうちに六十歳で崩御された。その皇子、のちの順徳天皇(第八十四代)も佐渡に流されて22年、悲運四十六歳の生涯だった。「小倉百人一首」の終わりには、九十九番後鳥羽院、百番順徳院の歌で締めくくられている。

第八話「大宰府落ち」

 平家一門の「都落ち」に遡ること3年前の一時期、清盛の意向により平家は福原(神戸)に屋形を構えたことがある。このたびの安徳帝を奉じての都落ちにも、一門はまず福原をめざした。しかし、福原に踏みとどまれない程、事態は切迫していた。ついに平家は、船団を仕立てて瀬戸内海を西下したのが、寿永2年(1183)7月25日。最初にどこを目指して落ち延びて行ったのか、なかなか的確に答えられる人は少ないと思うが、「巻第八」に大宰府の説明がある。平家は所領の多い西日本周辺を目指し、とくに西の都・大宰府にいったん落ち着こうとしたようだ。

 

  8月17日大宰府に安着した一行は、しばらくして九州東部にある宇佐八幡宮に詣で、日夜を徹して神の加護を祈ったが、期待空しく凶と出たのでがっかりして大宰府へ帰った。大宰府を再起の拠点とするつもりで、内裏(だいり)を造る予定だったが、だんだん情勢が悪くなってきた。というのは、大宰府一帯に勢力をふるっていた緒方三郎維義が、平家に恩義があるにもかかわらず、後白河法皇による「平家追討」の院宣(いんぜん)をタテに反旗をひるがえした。内裏造営など思いもよらず、あわてた平家一門は、とにかく大宰府を脱出、山鹿兵藤次秀遠を頼って遠賀川の河口・芦屋の山鹿城まで逃げ延びることになった。

 

  この時の、一行の逃避行は、安徳天皇を輿(こし)に乗せて急ぎ、降る吹く暴風雨の中をずぶぬれになりながら裸足で逃げるという悲惨さで、都育ちの女官たちにとっては最初の受難だった。その耐え難い体験のことが「巻第八・大宰府落ち」の章に切々と訴えられており、女官たちの悲鳴が聞こえてくるような名文である。「をりふしくだる雨、車軸のごとし。吹く風砂(いさご)をあぐとかや。おつる涙、ふる雨、わきていずれも見えざりけり。住吉、筥崎、香椎、宗像ふしおがみ。御足より出づる血は沙を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅にぞなりにける。

 

 現在の北九州市に隣接した芦屋町の山鹿城跡を訪れたことがある。遠賀川の河口に近い芦屋橋のそばにある城山公園がそれで、高さ45メートル余の丘を利用した平山城であったといわれている。苦難の一行を迎え、守護した山鹿秀遠。丘に登ると河口や玄界灘が望見され、風雨の中を裸足で落ち延びた人々の必死の思いが胸を打った。平家の人々にとってこの山鹿での滞在は、束の間ではあったが頼もしく安らぎの日々であったことが推測される。

 

  さて、山鹿秀遠は緒方軍十万の大敵を避け、平家一族を柳ヶ浦(門司の大里)へ送るが、秀遠自身もその後、家来を引き連れ平家と行動を共にし、壇ノ浦合戦まで従った。巻十一の「壇ノ浦合戦」の描写にも「山鹿の兵藤次秀遠、五百余艘で先陣にこぎむかふ。」とある。


第九話「柳の御所と清経」

 白洲正子によれば、能舞台の名作の大半は「平家物語」に材を取ったドラマである。とくに修羅物の曲には「敦盛」「忠度」「実盛」「清経」など名作が目白押し。清盛の三男・左中将清経は、京都に愛妻を残して、一門とともに西国に都落ちした。「都をば源氏がために攻め落とされ、鎮西をば維義(緒方三郎)がために追い出さる。網にかかれる魚のごとし」(巻第八大宰府落ち)と嘆かざるを得なかった。いったんは芦屋の山鹿城に立て籠もったものの、さらに敵が攻めて来ると聞いたので、平家の一行は暗夜小舟に乗り込み、海づたいに豊前(現北九州市)の柳が浦にたどりついた。豊前国柳が浦というのは、現在の北九州市門司区大里(だいり)のことで、その当時柳が浦という所は大里以外にはなかったといわれている。江戸期、今川貞世の書いた「道ゆきぶり」にも「島(彦島)の向かい側は柳が浦といって、昔、さと内裏があったところである。今はそのあたりを、だいりの浜という。」と記されている。さと内裏とは、一時的な仮の皇居のことである。もともとは天皇の住居の意味だから、落ち延びての漂白の生活のなかで資金も広大な地所もあてがなく、むしろ仮御所というのがふさわしい。

 平家一族が、芦屋の山鹿から門司へ来て滞在したのは当初はわずか7日間くらいのことであったが、のちに四国屋島から追われ(元暦2年2月22日ごろ)再び門司や彦島に陣を張り、最後の決戦となった壇ノ浦合戦が3月24日であるから、それまでに約1ヶ月滞在したわけで、その間に安徳天皇のために内裏が造られたのは当然のことであろうと思われる。門司の大里については、その昔は内裏と書いていたが、享保時代に領主小笠原忠雄が恐れ多いので大里に改めさせたとの説もある。内裏が置かれた跡地は、現在も「柳の御所」と呼ばれ、御所神社を祀って地元で大切に保存している。

 さて、平家一族の辛酸を舐めつくすような日々のなか、この仮御所で7日ばかりが打ち過ぎたころ、清経の悲劇が起こった。冒頭の文章に続いて「平家物語」は清経の自決を伝える。「網にかかる魚のごとし。いづくへゆかばのがるべきかは。ながらへはつべき身にもあらずとて、月の夜心をすまし、船の屋形に立ちいでて横笛ねとり朗詠してあそばれけるが、閑かに経よみ念仏して、海にぞ沈み給ひける」(巻八)。

  能舞台の「清経」では、都に残された妻が、戦死でも病死でもない夫の最後を恨み嘆くシーンに涙をしぼることになるが、当然であろう。たとえ清経がノイローゼ気味てあったとはいえ、希望を失った結果の自殺は彼を取り巻く平家一族の者たちに大きな動揺を与え、誰もが前途に不安を感じたはずである。さらに悲劇は重なり、清経の兄・維義も屋島を脱出後、海に入り自殺するのだ。二人の兄弟が戦場から離脱、入水して果てたのも因縁深い話である。赤間神宮の七盛塚には十四基の中に、維義、清経の墓塔が含まれている。清経の墓は、福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだちょう)にもある。柳ヶ浦で入水した遺体が関門海峡の流れに乗り、苅田の浜に漂着。土地の人々が鄭重に火葬して埋葬したようである。



十話「名馬いけずきの伝承」

  「巻第九」の章に、有名な「生(いけ)ずきの沙汰」と「宇治川の先陣」の物語がある。宇治川は京都防衛の要衝なので、たびたび合戦が行われた。

   「平家物語」の宇治川の戦は1184年(元暦1)厳寒正月20日、木曽義仲と源義経との合戦である。義経の指揮する家来のなかで、梶原景季と佐々木高綱が名馬「する墨」と「いけずき」をあやつり先陣争いをした。戦前には小学校の教科書にも登場した名場面である。結局、決死の覚悟で挑んだ佐々木高綱が勝つ。彼は敗れたときには切腹するつもりだった。「いけずき」は頼朝から賜った名馬だった。「いけずき」は黒栗毛で肥えた逞しい馬だったが、気性が烈しくほかの馬や人にも噛みつくほどだった。ちなみに、両名馬「する墨」と「いけずき」の産地はいまだに諸説乱れ、判明しない。ところで、我田引水のようだが、この名馬「いけずき」の産地説に下関の山陰側の海岸・吉母(よしも)地方と北九州戸畑区牧山説がある。

 

  戸畑説は、現在の牧山公園一帯が昔牧場だったといわれる程度で詳細は不明。また博多湾に浮かぶ能古島説もあり、この名馬が玄界灘周辺の産とする説は根強い。吉母地方説には、多少の歴史的根拠がある。牛馬などを放し飼いする所を昔から「牧」といい、大化改新以前の文献記録もある。注目されるのは、改新後870年と879年に長門・豊前両国産の馬の管外移出を禁じた通達が出され、さらに905年の延喜式に宇養馬牧(うかいのうままき・国指定馬の放牧場)と角島牛牧(つのしまうしまき)の設置された記録がある。宇養馬牧は現在の長門市深川真木、油谷町、豊浦郡宇賀が想定され、角島牛牧はいうまでもなく豊北町の角島で現在も海浜の緑草地で牛が放牧されている。しかもこの地域には「牛」にちなんだ地名が点在している。すなわち、角島(牛の角)、特牛(こっとい・力の強い牡牛)、肥中(ひじゅう・昔は肥牛)、小串(昔は子牛)などである。(写真は角島大橋) 

 

 時代は定かではないが、この吉母地方に母馬を慕って島から島へ泳ぎ渡る子馬のいななきをモチーフにした悲哀の伝説が語り伝えられきた。母馬恋しさに、こだまとは気づかず、牧場と島を往復するうちに逞しい若駒に成長したというのである。この馬が、いろいろな経緯の後、源頼朝の手に入り、さらに家来の佐々木高綱に与えられたのだ。もっとも頼朝の名馬いけずきは、黒栗毛と書かれているので、吉母のひばり毛の名馬とはつじつまが合わない。しかし、この伝説のひばり毛名馬といけずきの結びつきはおもしろい。仮にいけずきであったとすると、宇治川の急流なんて平気で泳ぎ渡ったであろうと思われ、海と川との水の接点を考えると、その着想が非常に面白く見事だと言いたいのである。

 

第11話「平家女人苦難のこと」

  寿永4年(1185)3月24日、源平興亡の命運を賭けた壇ノ浦合戦で平家はついに滅亡する。作家南條範夫は、この海戦は平家にとって、最初から決定的に不利な点があったと主張している。そのひとつは徳富蘇峰の評論に「重盛についで相続者となった宗盛は、平家の総統として最も不適当だった」ことを指摘、平宗盛が凡庸怯懦(ぼんようきょうだ)の人物だったと説き明かす。さらにもうひとつ「平氏が女院(安徳天皇の生母・建礼門院)や禅尼(清盛の妻・二位の尼)以下、多くの女人を船中に擁していたことも、その行動に支障を与えた−そもそも大合戦の場にこのように女人群をひきつれ臨んだことは、わが国の歴史上には他に例がないだろう」と評している。

 壇ノ浦決戦における平家の敗因ついては従来、義経の戦略勝ちや、海峡の潮流のこと、水軍の裏切り等、種々取沙汰されてきたが、冷静に考えれば南條範夫の指摘するようにひきつれていた女人が大きなブレーキになったことは否めないだろう。ところで、平家の女人たちは幾人いたのであろうか。正確な数はわからないが、壇ノ浦合戦で生け捕りとなった女人たちは、「巻第十一」に「女房では女院、北の政所、廊のお方、大納言佐殿、帥のすけ殿、治部卿の局以下四十三人」と書かれている。(写真:壇ノ浦合戦・安徳帝入水の絵図) 
                                             
 「平家物語」を読みつつ以外に感じたことのひとつに、全体を通してみて、他のそれぞれの物語にくらべ、船上生活の苦難のことが書き尽くされていないという思いである。都落ちして以来、1年9ヶ月を要しているが、それらしい記述は二、三カ所に過ぎない。しかも美文調ゆえに現実味にとぼしい。そんな感慨にふけっていたころ、岩波新書の石母田正著「平家物語」を読んで驚いた。私とまったく同じ意見が述べられていたのである。
 以下引用「平家を読んでゆくうちになんとなく印象にのこるのは、平家物語はこれほどの長編でありながら、生活というものについての感覚が実に鈍いことが注目されるからである。たとえば都落ちして海上に浮かんだ平家の公達は、明け暮れ都を偲んで涙を流しているばかりで、彼らが海上でなめたであろう辛酸が物語になんら出てこないことは、おどろくべきほどである。潅頂の巻における女院の言葉にさえ、つぎのように、海上生活の悲惨が語られているのだから、なおさらである。」『波の上にて日を暮し、船のうちにて夜を明かし、貢ぎ物もなかりしかば、供御も具ふる人もなし。たまたま供御は備えんとすれども水なければ参らず。大海に浮かぶといへども、潮なれば呑むこともなし。これ餓鬼道の苦とこそおぼえ候ひしか』(潅頂の巻・六道)

 この「餓鬼道の苦」が、せめて女院の述べた程度にでも、物語の本文に描かれていたならば「平家物語」の叙述がどれほど生彩を帯びたかわからないのである。 


12話 番外編「声に出して読みたい名文」

「平家物語」の韻律は、たんに戦記文学の記述にあらず、詞草は、琵琶法師によって津々浦々に響きわたった。その白眉の名文を掲げるので音読・朗誦していただければ、あなたはすでにNHK大河ドラマ「義経」のナレーター。

                                               

祇園精舎(巻第一)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰のことわりをあらわす。奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。

 

妓王(巻第一)

 かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きぬれば、星合いの空を眺めつつ、天の戸渡る梶の葉に、思うこと書く頃なれや。夕日の影の西の山の端にかくるるを見ても、日の入り給う所は、西方浄土にてこそあんなれ。いつかわれらもかしこに生まれて、物を思わで過ごさんずらんと過ぎにし方の憂きことども思いつづけて、ただ尽きせぬものは涙なり。

 

福原落ち(巻第七)

 昨日は東関の麓に轡(くつばみ)を並べて十万余騎、今日は西海の波の上に纜(ともづな)を解いて七千余人、雲海沈々として、青天すでに暮れなんとす。孤島に夕霧隔てて、月海上(かいしょう)に浮かべり。極浦(きょくほ)の波を分け、潮に引かれて行く船は、半天の雲にさかのぼる。日数経(ふ)れば、都は山川(さんせん)程を隔てて、雲井の余所(よそ)にぞなりにける。はるばる来ぬと思えども、ただ尽きせぬものは涙なり。波の上に白き鳥の群れいるを見給いては、かれならん、在原のなにがしの、隅田川にて言問いけん、名も睦まじき都鳥かなと哀れなり。寿永二年七月二十五日に、平家都を落ち果てぬ。

 

壇ノ浦合戦(巻第十一)

 さるほどに、源平両方陣を合わす。陣のあわい、海の面(おもて)わずかに三十余町をぞ隔てたる。門司、赤間、壇浦は、たぎりて落つる潮なれば、平家の船は心ならず、潮に向かって押し落とさる。源氏の船はおのずから潮に追うてぞ出で来る。沖は潮の早ければ、汀(みぎわ)について、梶原敵の船の行き違うを、熊手にかけて引き寄せ、乗り移り乗り移り、親子主従十四五人、打ち物の鞘をはづいて、艫(ともえ)にさんざんに薙いで廻り、分捕りあまたして、その日の高名の一の筆にぞつきにける。

13話 小泉八雲と耳なし芳一T

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、私の敬愛する作家のひとりである。八雲ほど日本を理解し愛した外国人はいない。古き良き日本の心と姿とを美しい抒情的な文学作品で、全世界に紹介した。

 八雲は1890年(明治23)4月に来日し、9月松江中学(旧制)の英語教師になり、士族の娘・小泉節子と結婚、武家屋敷に住んだ。この節子夫人との幸福な生活がなかったら、八雲は日本に永住することにならなかったかもしれない。

 

 作品の中で最もすぐれたものは『古今著聞集』などの古典や民間伝説に取材した著作集『怪談』であり、叙情性ゆたかな筆致で怪異に満ちた話を描き、日本紹介の域を超えた文学的芳香の高い短編小説だと評価されている。節子夫人の語るところによれば、八雲の好きだったものは「西の空、夕焼け、夏の海、遊泳、芭蕉、杉、さびしい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱」等。古谷綱武は「おそらく八雲は、日本人の因習や信仰を深く知るにつれ、その風土と信仰がいかに怪談の貴重な温床であるかと大きな喜びを発見したに違いない。『怪談』がたんなる妖怪談の記述ではなく人間的な美しさや寂しさを描いているのが八雲文学の生命だ」と述べている。

                                                           

 さて、その珠玉のごとき作品集『怪談』の冒頭に書かれているのが「耳なし芳一のはなし」である。平家伝承のなかでも傑出したこの話は、地元下関にも昔から知られてなく、八雲によってはじめて有名になったわけである。節子夫人の回想で、八雲の「芳一」執筆にたいする格別な思い入れが語られている。「ヘルンはなかなか苦心いたしまして、もとは短いものであったのを、あんなにいたしました。“門を開け”と武士が呼ぶところでも、いろいろ考えて“開門”といたしました。執筆中は日が暮れてもランプをつけていません。私がふすまをあけないで次の間から、小さい声で、“芳一、芳一”と呼んでみました。すると“わたしは盲目です、あなたはどなたですか”と内から言って、それでだまっているのでございます」さらに八雲は、深夜、庭の笹の葉ずれの音に耳を傾け“あれ、平家が滅びてゆきます”とか、風の音を聞き“壇の浦の波の音です”と平家物語の世界に没入してこの作品を書き上げた。

 

 ところで八雲の『怪談』の種本について、下関の郷土史家で今は故人となられた藤村直、永岡栄吉両氏の貴重な比較論考がある。次回にその典拠を詳述したい。

(付記 昨年は小泉八雲没後100年記念イベントが国際規模で開催され、とくに生誕地ギリシャのレフカス島は八雲の名声を再認識し、顕彰活動の驥尾に付いたと伝えられる)


■第14話 小泉八雲と耳なし芳一U 
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の名作『怪談』の中で、とくに下関・阿弥陀寺(現赤間神宮)が舞台となる『耳なし芳一』の典拠について、すでに故人となられた郷土史家藤村直、永岡栄吉両氏の貴重な研究小論がある。両氏ともに江戸時代に流布された種本2冊についての比較論考である。「耳なし芳一」の説話は、享保19年(1734)に尼崎の本屋・長右衛門から版行された『御伽厚化粧』
(おとぎあつげしょう)の内、「赤関幽鬼を留む」が最も古いものと思われ、のち天明2年(1782)に一夕散人の作として出た『臥遊奇談』の中にも「琵琶悲曲幽霊を泣かしむ」の一章がある。その後120年を経て、小泉八雲がこの話種を取り入れ、ロンドンとボストンから出版したのが『KWAIDAN』(明治37年・1904)である。
 
 『御伽厚化粧』の琵琶法師の名は「鶴都」(かくと)となっており、『臥遊奇談』では「芳一」となっている。「長州赤間関の辺りに鶴都という琵琶法師ありけり」(御伽厚化粧)、「阿弥陀寺近辺に盲者あり芳一という」(臥遊奇談)。また、法師を呼びに来たのは御伽厚化粧では「いと優雅なる女房」であるが、臥遊奇談では「武士」になっている。両著書の大きな違いは、前者には耳をもぎ取る凄惨な場面はなく、鶴都が亡霊に会って「のち鶴都、僧を請じ大施餓鬼を成して弔いければ、その後は呼びに来たることもなかりし」とおだやかな結末になっているが、後者では「芳一を裸体にして和尚自ら筆を取り、般若心経を書す。この時、耳に経文を書き落としたため武者が耳をもぎ取った」と身の毛もよだつような物語となっている。
 
 小泉八雲は、『臥遊奇談』を原本としたことはいうまでもないが、藤村直はそのことを指摘した上で、八雲は『御伽厚化粧』を知らなかったのではないかと推理している。八雲は怪談の資料蒐集には非常に意欲的だったはずで、節子夫人の『思い出の記』のなかにも「私は古本屋を、それからそれへと大分探しました」という証言がある。私の推理では、節子夫人は二つの原本を探しあてていたのではないかと思われる。しかし、『御伽厚化粧』の内容では怪談としての迫力が足りないので、もう一方の『臥遊奇談』の話種をとりあげ、さらに独自の脚色をして、あのような鬼氣せまる短編小説に仕上げたものと推察する。

リライト:武部忠夫さん/写真:青木紀雄さん】



15話 平家蟹と小泉八雲 

 引き続き小泉八雲にまつわる話題。前号で紹介したように、八雲があれほど情熱を傾けて書いた「耳なし芳一」ならば、現地の下関に来てしかるべきだと思うし、あの迫力ある文章から推測すると、当然ながら、赤間神宮境内の安徳帝御陵や七盛塚、そして阿弥陀寺跡を訪れたことは間違いないとおもわれるのである。   

 しかし、確かな文献は見当たらない。残念だが、ひとつ推定できる文章がある。それは、作品集『骨董』(こっとう)の中の「平家蟹」に出てくる文章で、「わたくしがこんなことを考えたのは、ちょうどそのとき、わたくしの家に長州から蟹の箱が届いたからであった。(略)この蟹は−今、ここにはそのうちの二種類だけであるが、どちらもよく干して磨きこんでいる。これは赤間が関(外人には下関という名で通っている)へ行くと、いつでも店先に出して売っている。壇の浦というところは、いまから七百年ほど前、かの平家が、その敵源氏とここの海上で戦って全滅したところである」とある。この文面から、八雲が下関に来たことを十分に推測できると私は思うのだが、どうであろうか。

                                  

 八雲は松江を大変気に入っていたが、山陰の寒さに耐えられず、明治24年(1891)熊本の第五高等学校(旧制)に転任した。この当時は交通の便が悪く、松江から宍道まで小蒸気船、広島まで人力車、呉から門司まで汽船、春日まで汽車、ここから人力車で熊本に入った、とある。さらにこの年の夏休みには、博多、神戸、京都、奈良、伯耆、隠岐などを旅行し、明治27年(1894)には、熊本から東京、横浜、箱根、大津を旅行、明治29年には、伊勢、京都、大津、奈良、堺、大阪、美保の関、松江に旅行しているから、その往復の途中、下関に寄ることは容易であったと思われる。耳なし芳一への格別の思い入れと、先に挙げた骨董の平家蟹の文章から、下関の赤間神宮に立ち寄ったことは決定的だと思料される。

【リライト:武部忠夫さん/写真:青木紀雄さん】 

 

朗報付記 このたび奈良原真吉理事長と下関支部武安誠正、青木紀雄さんの尽力と読売新聞社南隆洋氏のご高配、夫人中原節子さんのご快諾により、中原郁生遺稿「平家物語探訪」がほぼ原文のまま読売新聞山口県版(約20万部)に長期連載されることになりました。永年にわたり、遺稿集の出版を夢見てこられた関係者の友情の結実を喜び、ご報告いたします。(T)

 

        

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