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大姑娘山(5,025m)に挑戦
東川 征夫
第 1回 私の山暦 第 2回 1枚の音楽CDとのであい 第 3回 山田隊救助隊長の宮崎 勉さんを訪ねる 第 4回 大姑娘山登山を決断する 第 5回 準備と出発(1) 第 6回 準備と出発(2) 第 7回 登山基地「日隆(リーロン)」へバスの旅 第 8回 登山基地[日隆]からベースキャンプ地[老牛園子(ラオニューエンツー)]へ 第 9回 高度順応しハイキャンプキャンプ地(4,300m)へ(その1) 第10回 高度順応しハイキャンプキャンプ地(4,300m)へ(その2) 第11回 大姑娘山登頂 第12回 酸素飽和度(Oxygen Saturation) 第13回 大熊猫(パンダ)保護センターのある臥龍(ガリュウ)へ下る 第14回 帰国
■第1回 私の山暦
はじめに
9月の海外旅行体験話クラブの会合の折、メルマガ編集長の生部さんから10月から大姑娘山の登山をメルマガに連載してくれと依頼されました。固辞したのですが、編集長の勢いに負けてお引き受けすることになりました。
登山は、ただ自然の中を歩いているだけですから、写真やスライドを見ながら状況を説明するのであれば理解していただけます。海外旅行体験話クラブでは、PowerPointにまとめた写真で登山の状況を説明いたしましたが、山登りを文字で表現するとなると、文才のない私には大変難しいことです。
でもこれも挑戦だと思い、何回の連載になるか、また、途中休みが入るかも知れませんが書いてみることにしました。あまり期待しないで頂きたいと思います。
第1回目は、私の山暦を知っていただくために、5月にメルマガに掲載させていただきました、「なせばなるぞ山登り」を若干加筆し「私の山暦」と題して再掲させていただきました。
私の山暦
今、登山人口は約9百万人といわれ、その70パーセントが40歳以上の方だそうです。
私も当然その1人で、20代は主に信州の山に登っていましたが、その後仕事に追われて50代半ばまで登山をすっかり忘れていました。 あるとき、家内と夫婦淵温泉から加仁湯まで紅葉の山を歩きました。そのとき山の素晴らしさを再発見し、それからまた山登りをはじめるようになりました。
しかし30年近くも山に縁のない生活をしていましたから、当初は、奥武蔵や秩父の低山でも顎を出す苦しい登山でした。緩やかな坂道でも心臓は高鳴り、息切れし、足は棒のようになってしまい、毎回、『こんなはずではなかった』『こんなはずではなかった』と、20代当時と比較しては情けない思いをしたものです。
でも登山の良さは、ピークの登頂であり、自然との触れ合いであり、花との出合いでありますから、下山後はその苦しさをさっぱりと忘れてしまい、毎週のように単独で山に出掛けていました。
人体とは不思議なもので、こんな山行きでも繰り返しているうちに、次第に心肺機能も脚力も強くなってきて、太鼓腹も引っ込んできました。そして、次第に高い山・高度な山に挑戦するようになってきました。
そんなある日。山から帰ってきたら、家内が『お父さん毎週、山、山といって出掛けるけど、どこの山に行っているの、帰ってこなかったら日本中の山を捜索しなければならないんじゃない』と言われ、これはイカンとそれからは登山計画書を作り一部家に置くようにしました。
登山でもハイキングでも1回の山行で3回楽しむ事が出来るといいます。【計画書を作る楽しみ】【山行実施時の楽しみ】【山行報告書を作る楽しみ】まさしくその通りだと思います。
登山を再開した当時から次第に中高年の登山ブームになってきました。そして山での遭難事故が年々多くなり、特に中高年の単独行の危険性が指摘されるようになりました。
62歳の時、単独行は限界と判断し山の仲間を求めて、さいたま市内の幾つもの山岳会に入会打診しましたが、年齢制限があるのか、どの山岳会も良い返事はもらえませんでした。ただ、大宮岳稜会からは例会見学にどうぞとの連絡があり、例会見学の席上で入会を決めました。入会してからの山行形態は、尾根歩きばかりでなく、沢登り・岩登り・冬山・山スキーとオールラウンドに広がりました。
ハイキングも登山も山を歩くということは、眼から入ってくる登山道の状態や落石発生などの緊急事態に、頭というコンピューターで即座に状況判断し、過去の記憶データーと照合して、安全で的確な行動と歩き方を、手足に指示するといった動きを登山行動中休みなく行なっている訳で、この事が、脳の活性化と心身の強化・健康維持増進に繋がっているのではないかと私は思っています。
世界の長寿村は、フンザ(ヒマラヤ)コーカサス,アンデスなど,標高の高い所にあります。そこに住む人達は長時間の肉体労働に従事して栄養摂取量が少ないという共通点が挙げられています。また、高地住民には動脈硬化・高血圧症・心臓病などの生活習慣病が非常に少ないと報告されています。
何事にも、肉体的・精神的に無理にならない程度の負荷を掛け、明るく楽しく前向きに行動することが、体力・気力維持に繋がり、元気継続の秘訣ではないかと思っています。
私の所属する山岳会の定例的な山行は月2回あります。これを定例山行と呼んでいます。そのほかに個人で誘い合って行う山行を、個人山行と呼んでいます。昨年の会の山行総数は両方合わせて175件になります。会員は30名ですが、2日に1件の割合で誰かが山に登っている計算になります。
山岳会に入って6年、最近は若い会員との行動格差が大きくなり、歳相応の体力に応じた山行をしなければと感じるようになりました。でも、月2回の定例山行に参加することが健康維持増進につながり、行動格差を広げないものと考え、出来るだけ参加するようにしています。
私の所属する大宮岳稜会にはホームページがあります。
URLは、http://www.miyagaku.sakura.ne.jp/ です。
登山に興味のある方は覗いて見て下さい。山行報告やトピックス・山の写真などが掲載されています。
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■第2回 1枚の音楽C Dとのであい
所属している山岳会の会員が、中国の大姑娘山(タークーニャン山)を登頂し、山麓には美しい花園がありすばらしい山と評価していました。私もいつか行ってみたいと思っていまして、今から4年前の2002年6月、ある大手の山岳ツアー会社の大姑娘山登山ツアーに参加申し込みしました。
参加には健康診断が必要とのことで、この会社の指定する病院で受診しました。その時、私は64歳になっていましたから、年齢的に無理かなと思っていましが結果は合格で、大変うれしかったことを記憶しています
ところが出発間際のある日、東京に住む叔父から叔母が急病で入院したとの緊急電話が入りました。急遽入院先の品川の病院に駆けつけました。病状は重く、その夜から控え室に泊り込んでの看病がしばらく続きました。結局この時点で大姑娘山への挑戦は出来なくなってしまいました。
叔父は80歳を過ぎていましたから、泊まりの看病は体力的に無理であり家内と交代で看病に当たりました。その後病状は回復し、リハビリを始めるまでになりましたが、再び寝たきりの状態に戻ってしまい、入院から5ヶ月に入った11月に帰らぬ人となってしまいました。
叔父は態度には出しませんでしたが、うちに秘めた悲しみは痛いほど解りました。
それから2年、三回忌法要は信州の菩提寺・霊泉寺で、御斎は鹿教湯温泉の「鹿乃屋旅館」でおこないました。そのとき売店にあったのが1枚の音楽C Dでした。このC Dが再び大姑娘山挑戦へと誘ってくれました。今考えると何か不思議因縁を感じます。
「山の歌・美しき恋人たちのメロディー 山田昇15年祭によせて」と題したこのC Dには、極北マッキンリーでオーロラになった男、山田 昇と記され、沼田出身のギター弾き語りでシャンソン歌手でもある いしざかびんが という人の山の歌が16曲収録されていました。このC Dを聴いていると山に夢中になっていた若かりし頃を思い出し、今でもロマンチックな気分にしてくれます。
私はその当時、山田 昇のことについてほとんど何も知りませんでした。山田昇という登山家について調べて見ようと思いました。あるとき一冊の単行本をインターネットで検索しました。それは、佐瀬稔著の「ヒマラヤを駆け抜けた男 山田 昇の青春譜」でした。この本には山田 昇の高校時代からマッキンリーで遭難死するまでのことが書かれ、また、山田とかかわりのあった人々のことが実名で紹介されています。
山田 昇は、史上最強の登山家ともいわれ、14年間で30回の海外遠征登山に挑戦し、8000m峰14座中9座に登頂し14座完登を目指していました。
ところが、1989年2月24日、同行していた小松・三枝の2名とともにマッキンリーで遭難死してしまいました。このパーテーは4人で、亡くなった3人のほかに1人の生存者がいます。その方は、ランニングポイントでベースキーパーをしていた佐藤俊三さんで、IDN第11期の佐藤昌子さんのご主人です。このことを後で知って大変驚きました。世の中は広いようで狭いものです。
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音楽CDの写真 マッキンリーの写真
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■第3回 山田隊救助隊長の宮崎 勉さんを訪ねる
「ヒマラヤを駆け抜けた男」は、第一回ミズノ・スポーツライター賞(ノンフィクション部門)を受賞しています。山田昇と関わりのあった人々が実名で紹介され、日本の山岳活動の歴史をも知ることが出来ます。この本を読み進むうちに、山田 昇の人間像が次第にはっきりしてきました。
人の悪口は決して語らず、「楽しい山」が大好きで、しかし山に関心のない人の前では一言も山を語ることのなく、すべての人々から愛された青年だったようです。
また、「他愛もないことをにぎやかにしゃべりあって大笑いして「じゃ、またね」と山田さんと別れたあと、ふと気がつくとはっきりした残像がこちらの胸の中に残っている。そういう上等で質のいい男性は、なかなかいるものではありません」とある女性が語ったと書いてありました。
山田 昇と関わりのある人の中に、宮崎という名前が本のところどころに出てきます。
この方は宮崎 勉さんといい山田隊の救助隊長を勤め、群馬県利根郡片品村でペンションを営んでいることが分かりました。早速ペンションを訪れ、山田 昇や山田隊の事についていろいろ聞くことが出来ました。
そして宮崎さんは二冊の本を見せてくれました。それは、読売新聞社編集の「史上最強の登山家山田昇」とマッキンリー遭難対策本部編集の「マッキンリー山田隊 極北の烈風に死す」(東京新聞出版局)でした。
のちに、兄、山田 豊氏の経営するリンゴ園内に建つ「山田昇ヒマラヤ資料館」を訪ねた折、この二冊の本を購入し、史上最強といわれる登山家の山暦のすべてと、遭難から遺体収容までの全容を詳しく知ることが出来ました。
宮崎さんの経営するペンションは、沼田から中禅寺湖に向かう国道120号線の栃木県境の丸沼高原にあります。丸沼高原の近くには日本百名山の「日光白根山 2,578m」があり、夏は登山やハイキング、冬はスキーヤーやボーダーで賑わいます。標高差600mを一気に登るロープウエーの山頂駅(2,000m)には、季節になるとコマクサやシラネアオイなどの高山植物が咲き乱れます。
今年の夏、山頂駅の近くに「天空の足湯」と名づけられた大きな露天の湯が誕生しました、大勢の登山客やハイカーが足入浴をして疲れを癒していました。
宮崎さんと知り合ってからは、年に1〜2回このペンション「プモリ」を利用して、登山やスキーを楽しんでいます。「プモリ」とは、エベレストの隣にある山の名前で「娘の山」の意味があるそうです。玄関を入るとインテリアとして、ピッケルやアイゼン・カラビナやハーケンといった山の道具が飾られ、わきには「プモリ」の大きな山の写真があります。そして奥様の趣味である、パッチワークやドライフラワーがところどころに調和して置かれています。
リビング件食堂には、たくさんの山岳関係の本や、ネパールの民族楽器などが飾られています。
宮崎さんもエベレストはもちろん、ダウラギリ1峰など多くのヒマラヤ高山の経験がありますから、大変参考なる山のお話を聞くことが出来ます。私は、今年の1月上旬八ヶ岳登山で凍傷になってしまい、緊急対応処置について宮崎さんに電話で問い合わせし対処した結果、後遺症もなく治療が出来ました。冬は薪の暖炉を囲み、酒を飲みながら山の話を聞くのを楽しみにしています。
次回は、「大姑娘山登山を決断する」です。
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宮崎 勉氏(当時の写真) 「プモリ」娘の山(7,161m)TOPへ
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■第4回 大姑娘山登山を決断する
幾つもの高山を極めた登山家には共通した人間像があるように思います。宮崎さんもその一人で、自らは山の事は語らず、聞けば親切に何でもアドバイスをしてくれます。また、料理好きで、ペンションではネパール料理なども出してくれますし、静かに過ごせるよう気配り心配りをしてくれます。宮崎さんの周囲には暖かい雰囲気が漂っています。プモリはとても居心地が良く落ち着くペンションです。
あるとき、リビングルームでコーヒーを戴いているとき、家内がテレビの上から「大姑娘山登山計画が載っているよ」といって一枚のパンフレットを持ってきました。見るとペンションプモリ企画として大姑娘山登頂やエベレスト街道カラパタールトレッキング計画などが掲載されていました。そのときは、この年齢では5千mもの大姑娘登山は到底無理と思っていましたから、計画の内容は聞きもしませんでした。
年が変わり、友人とスキーでペンションを訪れたとき、宮崎さんに4年前大姑娘山に行きそこなってしまったことを話しました。すると宮崎さんは静かな口調で「東川さん、これからでも大丈夫ですよ、うちの企画は十分な高度順応をやり、参加者全員登頂を目指していますから、大分年配の方も登りますよ。」といいました。
「本当に大丈夫ですか」と身を乗り出して大姑娘山登山の状況をいろいろ聞きました。そして「一昨年のビデオがありますから見ますか」といって見せてくれました。
確かに自分と同年配の方が何人か参加していたようだし、美しい花の映像もたくさんあり、大姑娘山行の素晴らしさや楽しさが伝わってきました。そして、「ようし挑戦してみようか」とこのとき決断しました。
問題は我が家の財務大臣の許可を取ることです、説得方法をいろいろ思案しながら、家に帰ってこの話をしたら、「宮崎さんとなら大丈夫でしょう、行けるときに行って来たら」と意図も簡単に許可が下りてしまい、拍子抜けしました。
大姑娘山行日程は、7月3日(月)から13日(木)の10泊11日と決まっていましたから、それまでに出来るだけ体を鍛えておこうと、2月・3月は山スキーやゲレンデスキーに精を出しました。ところが調子に乗りすぎたのか、急斜面で転倒し左膝を痛めてしまいました。
「過ぎたるは及ばざるが如し」です。しばらく医者通いし、4月下旬から、おっかなびっくり奥武蔵の低山でトレッキングをし、5月・6月は無理のない登山で体調を整えました。
6月に入って、IDNの海外旅行体験話クラブを主宰している伊藤さんから、「東川さんのホームページにある、スイストレッキングを体験話クラブで話してくれないか」との依頼がありました。「6年も前のことであり記憶もはっきりしてないし、ぼけ写真ばかり」とお断りすると、「近いうちに海外に行く計画はないですか」との事、中国の大姑娘山登頂を計画していると伝えると、ではその体験話をと依頼され、OKの即答をしましたが、後で、登ってもいない山のことを軽請け合いしたものだと後悔すると共に、なんとしても登頂しなければと意を強くしました。
次回は 「準備と出発」です。TOPへ
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ペンション 「プモリ」 プモリのリビングで
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■第5回 準備と出発(1)
登頂日程表・装備一覧表・参加メンバー表・注意事項等が送られてきました。
日程表を見てあらためて5,025mに挑戦するんだなあと、緊張感が体中を走りました。
10泊のうち前半2泊と後半2泊がホテル泊まりで、中6泊はテント生活です。
ベースキャンプ(標高3,600m)で4泊、ハイキャンプ(標高4,300m)で2泊となっています。果たして高度に順応できるだろうかと不安にもなりました。表:大姑娘山登頂日程表(2006年7月3日〜13日)
月日 曜日 都市・キャンプ地 交通・歩行 日程・宿泊地 宿泊・食事 7月3日 月 成田(9:30)〜成都(15:25) 航空機CA442 成都泊 ホテル・レストラン 7月4日 火 成都〜日隆へ 専用車 日隆泊 ホテル・弁当 7月5日 水 日隆〜ベースキャンプへ トレッキング BC (3,600m) テント・弁当 7月6日 木 ベースキャンプ周辺 トレッキング 高度順応 テント・弁当 7月7日 金 BC〜ハイキャンプへ トレッキング HC (4,300m) テント・弁当 7月8日 土 ハイキャンプ周辺 トレッキング 高度順応 テント・弁当 7月9日 日 大姑娘山登頂
山頂〜ベースキャンプへトレッキング 大姑娘山(5,025m)
登頂後BCに戻るテント
弁当7月10日 月 大姑娘山登頂予備日 トレッキング 大海子〜花海子 テント・弁当 7月11日 火 ベースキャンプ〜臥龍
日隆〜臥龍へトレッキング
専用車臥龍泊 ホテル
レストラン7月12日 水 臥龍〜成都へ 専用車 (都紅堰) 成都泊 ホテル 7月13日 木 成都(13:40)〜
成田(21:00)航空機CA421 AM市内観光
(武候祠)(杜甫草堂)レストラン
装備一覧表には主要なものが書かれていました。テント生活に入ると不足品があっても、コンビニでちょっと補充するという訳にはいきませんし、人様におねだりすることもできません。
遠征に必要な荷物は、スポーツバックとリックサックとポーチに入れることにし、テントに置いていいものはスポーツバックに、トレッキング時に必要なものはリックサックに、パスポートや貴重品はポーチにと、テント生活と登山行動をいろいろ想像しながら、細心の注意を払い自分なりの装備一覧表を作成しました。
表:大姑娘山登頂装備一覧表
スポーツバック 登山靴 アイゼン ロープ シラフ シラフカバー ストック(2本) 外装ビニール エアーマット ロールペーパー(2) 洗面用具 薬(別表) 枕時計 洗剤 洗髪剤 替メガネ ウエットテシュ(5) サンダル 電気剃刀 ビニール袋 - - (衣類) パンツ(2) ズボン下(2) ズボン(1) Tシャツ(3) 靴下(2) フリーズ 手袋 シャツ 長袖下着上下 タオル(3) - - - - (食料) 梅干 ふりかけ チョコレート 飴 ブドウ糖 黒糖 佃煮 パック茶 梅茶 干梅 箸2膳 - - - りックサック 雨具 コーモリ傘 ヘットランプ 予備電池 ザックカバー ヤッケ フリース タオル(1) ロールペーパー(1) 歯磨きセット 帽子カバー 水筒(1L) テルモス コップ カメラ デジカメ(予備電池) フイルム スパッツ 扇子 帽子(夏冬) ネックホーマ ガイド・メモ帳 救急箱 メモリー 食料袋 コンパス お金 - ポーチ パスポート リップクリーム 目薬 メガネ拭き くもり止め メガネ止 帽子止 ナイフ 筆記用具 緊急笛 電卓(小) バック鍵 お金 名刺 出発当日の服装 スニーカー 厚手ハンカチ ズボン パンツ ズボン下 Tシャツ 長袖シャツ チョッキ 夏帽子 靴下 腕時計 携帯電話 - - 待機荷物 ズボン(1) パンツ(1) ズボン下 シャツ(1) Tシャツ(1) 靴下(1) タオル(1) (日隆ホテル) ハンカチ(1) 携帯電話(予備電池) スニーカー - - - -
また、持参する薬についても、あらゆる状況を想定しながら準備しました。
表:大姑娘山登頂常備薬一覧表
救急箱(別) - リックサック - 救急箱 リップクリーム - ポーチ 三角巾(2) 目薬 - ポーチ 包帯(1) ボルタレン 鎮痛消炎 救急箱 テープ(大小) マキロン 傷薬 救急箱 バンドエイド クロマイP - 救急箱 固定粘着テープ バッファリン 頭痛薬 救急箱 ゴム手袋 セイロガン 胃腸薬 救急箱 経皮鎮痛テープ 新ワカマツA - 救急箱 ホカロン(大小4) コルヒチン 通風薬 救急箱 - ナイキサン - 救急箱 - サイトテック - 救急箱 - アトラントクリ−ム 皮膚薬 スポーツバック - 軟膏TC261 - スポーツバック - サプリメント 2種類 スポーツバック - ビオフェルミン 胃腸薬 スポーツバック - 三光丸 - スポーツバック - 太田胃酸 - スポーツバック - 日焼止クリーム - リックサック -
装備に落ちがあっては大変ですので、出発2日前に用意した装備品すべてを部屋一杯に並べて一つ一つチェックしました。
写真:個人装備
■第6回 準備と出発(2)
装備の中で、携帯用のウエットティッシュを5個持参したことは正解でした。中国では飲料水の関係からか分かりませんが、下痢を起こす人が多いと聞いていましたから、胃腸薬には特に神経を使いました。後でこの薬には大変お世話になります。また、高尿酸症体質なので3種類の薬も持参しました。
機内に預ける荷物は、18Kgまでと制限がついていましたから、スポーツバックに装備を入れたり出したりして重量を調整し、残りはリックに入れました。装備の総重量は30Kgぐらいになりました。
さて、参加者ですが、名簿を見て宮崎さんの人脈の広さに驚きました。北は青森県・南は奈良県から参加しています。男性が11名、女性が7名で総勢18名です。後で参加者の山暦を聞きますと、日本山岳連盟や県の山岳協会に関係あるいは関係した方が8名もいました。
表:参加者の出身県 県名 参加人員 男性 女性 県名 参加人員 男性 女性 青森県 1 1 - 東京都 1 1 - 山形県 1 1 - 静岡県 1 - 1 宮城県 1 1 - 富山県 1 - 1 栃木県 1 1 - 奈良県 1 - 1 群馬県 4 2 2 合計 18 11 7 埼玉県 6 4 2
出発当日の7月3日は、成田発9時30分の中国国際航空(CA422)便ですから、大宮、成田間の専用バス(ONライナー)の一番早い便5時20分発に乗車しました。久しぶりの外遊気分と、登山に対する不安感が入り混じった複雑な気持ちで成田に向かいました。
成田の待ち合わせ場所には、それらしき方が数人集まっていましたが、宮崎さん以外は初対面ですから、宮崎さんの到来をまってのご挨拶でした。
この便は成都空港直行便ではなく、一旦北京空港に着陸して入国審査を受けてから、再度成都に向かいました。スチワーデスは皆美人でしたが、愛嬌はいまひとつでした。「それでも最近は大分良くなったよ」と中国に再三来ている方が言っていました。
成都の町は小雨でした。ホテルに向かうバスの窓から異国の景色を見て、「いよいよ大姑娘山に挑戦するんだー」と気持ちを新たにしました。この日の宿泊は、成都市内の眠山飯店(MINSHAN HOTEL)でした。夕食は市内のレストランで丸テーブルを囲んでの大変美味しい中華料理でした。
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7月3日 MINSHAN HOTEL泊 成都市内レストランで夕食
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■第7回 登山基地「日隆(リーロン)」へバスの旅
大姑娘山は中国四川省にある山です、四川省は中国南西部に位置し省都は成都市です。西側が山岳地帯になっていて、そこに大姑娘山が聳えています。
7月5日は成都市から登山基地の日隆まで約240Kmのバスの旅です。朝早めにバイキングの朝食を済ませ、ホテルを8時に出発しました。(写真:成都から日隆までのバスルート)
成都市から都江堰市に向かって高速道路を走ります。高速道路の両側は工場建設ラッシュです。日本企業の進出も目立ちます。また、マンション建設も盛んに行なわれていて、通訳によると投資目的で建築前に完売されるといっていました。日本のバブル期に似ているような感じがしました。
工場建設地帯をしばらく走ると農村地帯に入ります。どこの農家も国からの補助で道路側の壁には美しい模様が描かれています。反対側の壁はどうなっているのでしょうか。
都江堰市には、約2,200年前に作られた、岷江(川)の氾濫を抑え、成都の治水・灌漑・船運の機能を備えた都江堰があります。この堰は2,000年にユネスコの世界遺産に登録されています。
都江堰市から先は山岳地帯になります。山岳道路入り口のコンビ二で、ペットボトル入り飲料水をたくさん共同購入してバスに積み込みました。
コンビ二のトイレは有料で5角(約8円)支払います。このトイレは、コンクリートの溝に水が流れていて、この溝に跨って用を足すようになっています。一人座れるスペースごとに高さ120cm程の仕切りがありますが、使用している人は丸見えというユニークな水洗トイレです。
コンビ二の前には自動車修理屋が軒を連ねていました。トラックは積載制限の何倍もの荷を積んで峠越えをするため、故障車が多いとの事でした。
バスは岷江沿いの道路をしばらく走り、阿?(?)蔵羌族自治州に入ります。映秀からは九寨溝へ行く岷江沿いの道と別れ、臥正河に沿った道路に入ります。二三日前に豪雨があったとかで真黒な水が轟音を立てて流れていました。
途中大きなダム建設現場を通過しました。中国経済発展を垣間見る思いがしました。河の両岸が次第に狭まり悪路が続きます。所々道路改修工事が行なわれていて、トラックやバスのすれ違いに時間がかります。河両岸の畑ではキャベツを収穫していました。通訳によると年4作可能との事で、多くの人が大きな篭に零れ落ちるぐらいにキャベツを背負い、つり橋を渡って道路に運び出していました。そのキャベツを丸ごと野積み状態に荷台に積み上げ、ネットを掛けて輸送する何台ものトラックとすれ違いました。
(写真:キャベツ満載トラック)
キャベツ畑は最近竹林に替わっています。パンダ保護のため国が補助を出し竹林化を奨励しているとのことで、平地で条件の良い畑が竹林になっていました。なぜ山の斜面畑を竹林にしないのか理解できませんでした。この地域は、ジャイアントパンダの自然保護区で、100頭を越える野生のパンダが生息していて、「パンダの故郷」と言うのだそうです。
走るに従い河沿いの道は農村地帯から森林地帯に変わり、やがて河をはなれ草原の峠道になりました。この草原地帯も長い距離でバスはどんどん高度をあげます。途中にはブルーポピーの群生地があり、赤・青・黄のたくさんの花を付けていてそれは見事でした。
4,320mの巴郎山(パーロンシャン)峠には、コンビ二が一軒あり、鮮やかな紫のアヤメが咲くお花畑がありました。ここでは少し長い休憩を取りました。
ここに、白馬を連れた山岳民族の兄弟(兄・妹)が出稼ぎに来ていて、観光客を乗馬に誘っていました。
4,000m以上の高地では、カメラのシャターを押すとき、ちょっと息を止めただけでふらつきます。深呼吸をしながら穏やかな行動を余儀なくされます。![]()
巴郎山峠で巴郎山峠から日隆3,150mまで険しい道を一気に下ります。 日隆に到着したのは18時20分でした。成都市を出発して実に10時間以上経過していました。日隆のホテルは、比較的新しいホテルでしたが、お風呂の水周りが悪く入浴することは出来ず、身体を拭くことでやっとさっぱりしました
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■第8回 登山基地[日隆]からベースキャンプ地[老牛園子(ラオニューエンツー)]へ
10時間の長旅で疲れたせいか昨夜はぐっすり眠りました。成都のホテルから二人一部屋の割り当てになっていて、私の相棒は、群馬県桐生市の若林さんです。彼は、工場経営を息子に譲り悠悠自適の身分で、10月にはエベレスト街道のタンボチェからカラパタール(5,300m)に行くと言っていました。毎年、外国の山を積極的に歩いているようで大変羨ましく思いました。
バイキングの朝食を済ませ、荷物をバスに積み込んでホテルを8時に出発しました。ホテルから5分ぐらいのところに登山口があります。登山口の建物の前には、「公安」と横腹に大きく書いたパトカーが1台停車していて、屈強な警察官が登山客をチェックしています。ここでパスポートを提出し登山許可証を貰います。この許可証は、中国語と英語で書かれていて登山届のような内容でした。
この日は、ベースキャンプ地「大姑娘山BC(老牛園子)」までのトレッキングです。
(登山ルート図を参照)
バスに積み込んだ荷物は、馬が運び上げてくれますから、我々は登山靴を履きリックを背負い尾根に向かいます。しばらく登ったところにバラックの小屋があり、その前が馬の溜まり場になっていてたくさんの馬が繋留されていました。小屋の前のベンチには馬方が並んで出番を待っています。親方らしき人がいろいろ指図していました。綺麗な鞍を付けた馬は人様用で、通訳の話によるとベースキャンプまで約4,000円だそうで、高山植物を観に来る日本人や中国の観光客がよく利用するとのことでした。
尾根にでると広々とした草原になります。白と黄色の小さな花が一面に咲いています。
経文を印刷した青・赤・黄・白の旗を先端から放射線状に飾った仏塔が幾つか並び、左遠方に険しい四姑娘山(6,250m)が聳えていました。二姑娘山・三姑娘山・大姑娘山は雲の中でした。
草原地帯を詰めると背の低い潅木地帯に入ります。この地帯にも美しい花がたくさん咲いています。相棒の若林さんとデジカメで花を撮りながら登っているうちに、一行と逸れてしまいました。この一帯にはヤクやヒツジが放牧されていて獣道が方々に走っています。その獣道に入ってしまったようです。ヤッホウとかオーイとか大声で呼んでみても返答がありません。詳しい地図もありませんから本能的に上に上にと登ってしまいました。
上から眺めても一行の姿が見えませんから益々不安になってきました。そのとき馬を連れた牧童らしき青年が下りてきました。「ベースキャンプ・ベースキャンプ」と言ってみましたが全然通じません。そこでやっと気が付いて、老牛園子とメモ帳に書いたら遥か谷の方を指差します。
藪をかき分けてその方向を目指して下りました。大分下ったところで、宮崎隊長と通訳が迎えに来てくれてほっとしました。一行とは大分遅れてのベースキャンプ到着となってしまいました。
到着は15時10分でしたから、この日の行動時間は約7時間でした。疲れました。TOPへ
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草原の登山道 ベースキャンプに向かう相棒の若林さん
■第9回 高度順応しハイキャンプキャンプ地(4,300m)へ(その1)
ベースキャンプ地は海子溝という川沿いの開けたところにありました。中央にモスグリーンの大きなテントが四張りあり、それを取り囲むように二人用の黄色いテントが並んでいます。
少し離れたところには広さ半畳ぐらいで、高さ170cm位のテントが四つありました。これがトイレでした。テントの周辺には小さな可憐な花が沢山咲いていて、「ごめん・ごめん」と言いながら踏みつけて歩かざるを得ませんでした。
モスグリーンの大きなテントの一つは調理場になっています、覗いてみるとキャベツやジャガイモなどの野菜が野積みされ、その横にはコックが寝泊りする小さなテントが張ってありました。寒さ除けだそうです。隅にコンロがあり、燃料はプロパンガスで麓から馬で運んでいるようでした。
カメラを向けると白い帽子を被ったコックさんがポーズを取ってくれました。後の二つのテントは食堂になっていて、粗末な折りたたみの机と椅子が設置されていました。ベースキャンプ滞在中はここで食事を摂ることになります。このテント村の村長さんは45歳ぐらいの小柄な女性で、公職を定年退職し第二の職場だそうで、長靴を履き黄色い声を張り上げて、ポーター達にいろいろ指示していました。とても愛嬌がよく好感の持てる女性で、「何(かあ)」さんという名前でした。
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ベースキャンプ村 ベースキャンプ村長の「何(かあ)さん」
黄色い二人用のテントには、馬で運んだ荷物がすでに届いていていました。早速相棒の若林さんとスポーツバックの装備を出したり入れたりしてから、テントの中心に二人のスポーツバックを縦に並べ、バックの左右にエヤーマットを広げて、塒(ねぐら)を作りました。
このテントのメーカーは確認できませんでしたが、比較的新しく二重構造になっていて確りしたものでした。外張りと内張りに余裕があるので、登山靴やスパッツ・スリッパなど雨に当てることなく置くことができます。
このキャンプ村の標高は3,600mで酸素濃度は平地の約三分の二だそうです。激しく動くとすぐ息切れや眩暈を起こすので、意識して深呼吸しながら行動しました。
食事の用意ができるとポーターが呼びに来ます。この日の夕食はやはり中華料理で油を多く使ったものでした。ビールなどのお酒が出ましたが、高地では酔いが早いので皆注意して少量に抑えていましたが、相棒だけは遠慮なく召し上がっていました。
この日も疲れていたので、午後7時半には寝袋にもぐりこみました。夜中から雨になったようで、テントを叩く雨音が続いていました。
翌7月6日は高度順応日です。まだ小雨が降っています。5時半に起床し身支度して食堂テントに集まりました。宮崎隊長から「今日から毎日、朝と夕方に酸素飽和度(SpO2 =血液中のヘモクロビンの何%が酸素結合ヘモクロビンかの度合い、平常値は97%〜99%)を測定させてもらいます。」と告げられ、パルスオキシメーターという小さな器具を手の指に挟んで測りました。その測定値は大姑娘山登頂終了まで明らかにしてもらえませんでした。
ベースキャンプから海子溝川を遡ったところに、高山植物の宝庫の湖と湿地帯、大海子(タイハイツー)・花海子(ホワハイツー)があります。今日はここまで高度順応トレッキングです。朝食を済ませカッパを着て出かけました。目的地までの山道にも沢山の美しい花が咲いていました。
大海子の湖畔には石積みの家があり、一家族が住んでいて、ヤクの世話をしているとのことで周辺には十数頭のヤクが群れていました。屋根にはヤクの角付頭部骸骨が二つおいてあります。厄除けだそうです。5・6歳の男の子が家の入り口に立って物珍しそうに我々を見ていました。小雨が降っているため花海子までは行かずに大海子から引き返し、昼にはベースキャンプに戻りました。午後は昼寝をして過ごしました。
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大海子とヤク番小屋 ヤク番小屋の子供
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■第10回 高度順応しハイキャンプキャンプ地(4,300m)へ(その2)
夜中に激しくテントを叩く雨の音で時々目が覚めました。現地の人は、この時期ほとんど雨は降らないと言っていましたから異常気象なのでしょうか。
雨漏りはあるか、テントの脇から水が浸み込んでいないか、ヘットランプを付けて見回しましたが大丈夫でした。安心して眠りにつきました。
朝5時過ぎに起きたときはまだ小雨が降っていました。この日7日は、ハイキャンプ地(4,300m)までの移動です。ゆっくり朝食を摂って酸素飽和度を検査し、8時35分ベースキャンプを出発しました。小雨は霧雨に変わっていました。向かう山の方向には重い雲が垂れ込んで何も見えません。川は昨夜の雨で増水していました。川の両側には紫色の花をつけた背の低いツツジが群生しています。
高度を上げるに従い樹木はほとんど無くなり草原地帯になって、黄色や白の小さな花が沢山咲いています。更に登ると岩稜地帯になります。沢をつめた平坦なところにハイキャンプ地がありました。正面には大きな岩山が立ちはだかっています。このテント村にもモスグリーの大きなテントの周辺の比較的平の所に、2人用の黄色いテントが並んでいます、そして地盤のやわらかい所に設置したのか、大分離れたところにトイレテントが2つ立っていました。
ハイキャンプ到着時刻は13時5分でしたから歩行時間は4時間半でした。ゆっくりしたペースで登ってきたので距離はそれほどないと思われます。
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ハイベースキャンプ村(4,300m) ハイベースキャンプ村のトイレキャンプ地のトイレは、ベースキャンプもハイキャンプも同じ構造で、横30cmぐらい・縦70cm・深さ80cmぐらいの垂直に掘られた穴の上に、高さ170cmほどのノッポテントが立っています。中には前後に鉄の支柱があります。入り口にはファスナーが付いていて、これを開閉して出入りします。ファスナーを明けたままにしておくと、風でテントが飛んでしまうので何時も閉めてあります。入るときノックしても音がしませんから、「入ってますかー」と声をかけます。「入ってまーす」と女性の声がしたときは申し訳ない気持ちになってしまいます。
地盤のやわらかいところには花も多いので、トイレの中も小さなお花で一杯です。少々臭いがありますが雲上の贅沢なトイレです。
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キャンプ村トイレの構造 黄色いブルーポピーベースキャンプ入りしてから風呂はありませんから入っていません。空気が乾燥しているせいか汗もあまりかかないしベタベタした感じもありません。でも、ウエットティッシュで身体を拭くと爽快な気分になります。携帯用のウエットティッシュを沢山持ってきたのは正解でした。相棒の若林さんにも分けました。
明日(8日)は高度順応日ですから夜はゆったりした気分で過ごすことができました。
高山病にならないために行動中水分を沢山摂るので、夜中にもトイレ行きます。この夜、夜中に起きてヘットランプを付けテントの外に出たら、霧が出ていました。トイレで大小済ませファスナーを開き外に出たら、濃霧と化しヘットランプの光は霧に反射し2m先は何も見えません。白一色です。昼間トイレとテントの位置関係を頭に入れておきましたが、テントに帰る方向がまるで解らなくなってしまいました。「落ち着いて・落ち着いて」と自分に言い聞かせながら、地面にわずかに残る登山靴の踏み跡を辿りながらやっとのことで、テントに辿り着きました。どっと疲れが出ました。
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■第11回 大姑娘山登頂
7月8日は、高度順応日です。ハイキャンプの周辺を歩き回り高山植物をデジカメに収めたり、少し高いところまで足を伸ばしたりして過ごしました。高度障害が少し出ていたのか、この日のことはあまり記憶に残っていません。デジカメには沢山の花の写真が残っていましたから、方々歩き回ったことは確かです。
7月9日、いよいよ大姑娘山登頂日です。朝5時に起床しました。快晴です。朝食は6時に済ませ6時50分にハイキャンプを出発しました。少し高度を上げると草木が一本もない岩稜地帯になります。朝露に濡れた岩はとても滑るので注意しなければなりませんでした。
平らな岩が幾重にも積み重なった急な斜面には登山道らしき道はありません。落石を起こさないようゆっくりしたペースで慎重に登りますが、空気が薄いので呼吸と脈拍数は大分多くなっているようです。喘ぎながら尾根に出たら、大姑娘山の姉妹山、四姑娘山(6,250m)三姑娘山(5,355m) 二姑娘山(5,276m)の三山が出迎えてくれました。その雄大な三山にしばし見惚れてしました。![]()
尾根への道 左から四姑娘山・三姑娘山・二姑娘山尾根からは雪原を登り、再び急登の岩稜地帯を詰めたところに大姑娘山の山頂がありました。山頂には、経文を印刷した布を幾重にも巻きつけた棒が一本立っていました。
山頂を踏みしめたときは「とうとうやったー」と叫びたくなりました。周囲は5千メートルを越す山々が連なり、その雄大さは日本の山では味わえない景色です。このときの感動は今も鮮明に覚えています。殿の人には隊長が付き添って登ってきました。みんな拍手で迎えました。目頭が熱くなりました。全員登頂したのは10時10分でした。どなたかが携帯寒暖計を持参していて、マイナス4度だといっていましたが、あまり寒さは感じませんでした。
山頂では、全員登頂を果たした明るい雰囲気の中で、集合記念写真を撮ったり、それぞれ思い思いの記録写真を撮ったりして過ごしました。その時間は約20〜30分でした。10時半には下山開始になりました。![]()
大姑娘山山頂 大姑娘山下山中足取りは軽く、おしゃべりも多くなりましたが、山では下山中の事故が多いことから皆慎重に下りました。
急斜面の岩場を下り雪原を通って、三姉妹山とのお別れの尾根で休憩し、ハイキャンプに到着したのは12時20分でした。ここで昼食を摂りベースキャンプまで一気に下りました。ベースキャンプ到着は15時30分でした。天気は雨に変わっていました。
食堂テントで夕食までの一時、みんなでお茶をしながら登頂の感想を語り合いました。そのとき気がつきましたが、自分も含めてみんなの顔が一回り大きく丸くなっています。手もこんもりとしています。後で隊長に聞きくと、肝機能の低下によりむくみが出ているが心配無いとのことでした。この日は賑やかな夕食会になりました。就寝は20時でした。久しぶりにぐっすり眠りました。
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■第12回 酸素飽和度(Oxygen Saturation)
今日10日は登山予備日です。予備日とは、天候が悪く大姑娘山に登頂できなかった時に、再挑戦できるよう準備された日です。昨日、好天のうちに登頂を果たしたので、今日は、高山植物の咲き乱れる大海子(ターハイツ)ら花海子(ホワハイツ)までのハイキングです。
起床は相変わらず早く5時20分でした。ゆっくり朝食を摂り、9時にベースキャンプを出発しました。気温は8度Cです。一番奥の花海子には2時間ほどでつきました。花海子は湿原地帯で、名も知らない多くの高山植物が美しい花を付けていました。
たくさん花の写真を撮りましたが全部紹介できないのが残念です。
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カルデリアナ(サクラソウ科) 高山植物の群生途中お花畑の中で昼食を摂り、早い時間にベースキャンプに戻りました。
食堂テントでくつろいでいる時、以前から気になっていた、酸素飽和度の数値を宮崎さんに聞きました。その数値は次のようになっていました。酸素飽和度(Oxygen Saturation)の調査結果
血液中のヘモグロビン総量に対する酸化ヘモグロビンの割合
Hbo2÷(Hbo2+Hb)×100=SPO2(%)
東川の酸素飽和度調査結果
検査月日 検査時間 酸素飽和度(%) 行 動 内 容 7月6日 朝 67 ベースキャンプ周辺で高度順応
大海子(ターハイツ)湖畔まで
トレッキング(約2時間半)(標高3,600m)夕 62 7月7日 朝 74 ベースキャンプからハイキャンプへ移動
(約4時間半)(標高4,300m)夕 65 7月8日 朝 66 ハイキャンプで高度順応
周辺の散策トレッキング(標高4,300m〜4,500m)夕 73 7月9日 朝 80 大姑娘山登頂(標高5,025m)行動時間
(約8時間半)BDに下りる(標高5,025m〜3,600mへ)夕 67 7月10日 朝 80 大海子(ターハイツ)湖畔
花海子(ホアハイツ)湿原までハイキング宮崎さんはこの数値を見て、「東川さんは4,000mの高度順応がうまく行けば、6,000mも7,000mの山も登れますよ」と言いました、なんだかまた元気が出てきました。病院ではこの酸素飽和度が95%以下になると、即、酸素吸入を行うと聞いています。高山登山中は酸素飽和度が80%以下でも平気であることに驚きました。
同標高地点に留まり、夜、休むことによって酸素飽和度が上がり高度順応が進みます。この繰り返しにより、酸素飽和度が次第に高くなるようで、高度障害にならないために、ベースキャンプとハイキャンプ地でそれぞれ1日の高度順応日を設けていることが理解できました。高度障害と大姑娘山の酸素濃度は下の表をご覧下さい。 急性高度障害の症状
頭痛・食欲不振・嘔気・嘔吐・倦怠感・虚脱感・眩暈・もうろう感、睡眠障害など、
3,500mの高度に急激に登高すると、ほとんどの人がこの症状を経験する。
予 防
急激に高度を上げないこと。ゆったりとした日程と行動で低酸素の環境に身体を馴化させる。
高地の空気中と体内の酸素濃度(平地との比較)
区 分 富 士 山 大姑娘山 エベレスト 標 高 3,776m 5,025m 8,848m 空 気 中 3分の2 2分の1 3分の1 体 内 2分の1 3分の1 4分の1 宮崎さんが測定した数値を登頂後まで皆さんに明かさなかったのは、この数値の変動が気になり精神衛生上良くないからだそうで、宮崎さんは、18名全員の酸素飽和度を毎日管理しながら、個別に高度順応度合いを観察し指導していました。おかげさまで全員が登頂できたのだと思います。
大姑娘山山頂でさて参加者18名の年齢構成は? 後日、旅行会社に問い合わせし、年齢と人数だけを聞きました。その結果は次の表の通りで、想像していた以上に高齢者が多くて驚きました。
しかし登山行動中はこの年齢差はを全然感じませんでした。皆、若いときから登山やハイキング・スキーなどを継続して続けている方で、まさに「継続は力なり」を感じました。参加者の年齢構成
年齢 参加人員 年齢 参加人員 59歳 1 68歳 1 60歳 2 69歳 2 61歳 2 70歳 2 63歳 1 72歳 1 64歳 3 79歳 1 65歳 2 平均年齢 65.7歳 今夜一晩でテント生活ともお別れです。この夜は大変にぎやかな夕食会となりました。
夜空にはたくさんの大きな星が煌めいていました。
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■第13回 大熊猫(パンダ)保護センターのある臥龍(ガリュウ)へ下る
7月11日、今日は、ベースキャンプ(老牛園子)から日隆(リーロン)までハイキングし、日隆から大熊猫保護センターがある臥龍までバスの旅です。
6日間お世話になったテント生活ともお別れです。朝起きて片付ける前に一枚の写真を撮りました。滞在中は、真ん中にスポーツバックを二つ縦に並べて、両側にエアーマットを敷いて二人仲良く過ごしました。結構居心地の良いテント生活でした。このテントともお別れとなるとなにか寂しい気分になります。7時半ベースキャンプを出発しました。快晴です。7日前に登った道を下ります。森林地帯の枯れ木には大きく成長した「サローガセ」がザイルのように巻きついています。この登山道にも可憐は花がたくさん咲いていました。途中、馬に乗って登ってくる中国の観光客とたびたびすれ違います。
テントの内部
その度にぬかるんだ狭い道を空けねばなりませんでした。やがて広い草原の尾根に出てほっとしました。遠くには四姑娘山がくっきりと姿を見せています。
四姉妹の姑娘山が良く見える仏塔の下で休憩をとりました。この長い尾根を日隆に下ってしまうと山は見えなくなります。ここで最後の集合写真を撮りました。みんなの顔が変に丸いのは、むくみのせいでしょうか。
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仏塔 最後の集合写真日隆の登山口に下山したのは11時50分でした。4時間20分のハイキングでした。
ホテルでバイキングの昼食を済ませ、専用バスで臥龍(ガリュー)に向かいます。途中の巴郎山(パーロンシャン)峠を少し下ったがれ場に、ブルーポピーの群生地がありました。ブルー・イエロー・レットの花が入り乱れて咲いていました。この写真撮影で大分時間をロスしてしまったのか、その後のバスは大変なスピードで悪路を下ります。ハンドル操作を間違えたら数百メートル下の谷に転落してしまいます。通訳の話によると、ツアー客を乗せるバスの運転士は、大型バス運転のキャリアを積んだ後、きびしい国家試験に合格した資格者なので安心してよいとのこと、確かにハンドル捌きは見事でした。午後5時半、大熊猫保護センターのある臥龍のホテルに着きました。
ホテルの向かいに保護センターがありましたが、閉門し入れませんでした。明日出発前に見学することになりました。ホテルの部屋に入って先ずお風呂の準備をしました。数えてみると一週間もお風呂に入っていません。浴槽になかなかお湯が溜まりませんから、痺れを切らしながら交代で入りました。一週間分の汗と垢を落とし、すっきりした気分で食堂に向かいました。
突然爆竹の乾いた大きな音が数分続きました。食堂に入ると結婚披露宴が開かれていました。
皆、平服のようですがこちらでは礼服かもしれません。新郎の両親と思われる人が二人を連れて、円テーブルを次々に廻りご挨拶しています。中国では、杯になみなみついたお酒を、新郎新婦に飲ませる風習があるらしく、二人は何杯も何杯も飲まされていました。すでに新郎はグロッキーでしたが、新婦は新郎の分まで杯を重ね、新郎を抱きかかえるようにしながら挨拶回りをしていました。大変頼もしいお嫁さんに見えました。我々は隅の円テーブルで会食しました。
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ホテル食堂前の大熊猫モニュメント ホテルの食堂で次から次に出てくる料理は美味しいし、登山目的を果たした安堵感から紹興酒やビールも大変捗りました。新郎のようにグロッキーにはなりませんでしたが、ふらつきながら部屋に帰り、朝までぐっすり休みました。しかし、この食べ過ぎ飲み過ぎが後で後悔する事になります。
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■第14回 帰国
昨夜は久しぶりのベットでよく眠りましたが、朝起きると、おなかの具合がおかしいので下痢止めを飲みました。しかしなかなか収まらず、トイレに何回も行きました。後悔先に立たずです。今まで食べ物や飲み水に気をつけてきましたが、昨夜は気の緩みから食べすぎ飲みすぎをしてしまったようです。
12日の午後と13日の午前中は市内観光でしたが、観光巡りどころではなく公衆トイレを見つけては飛び込む始末でした。下痢止めはあまり効果なく、脱水防止の水分を摂るぐらいで、食べ物はほとんど口にしませんでした。帰国する13日の午後はやっと薬の効果が出てきたのか、いくらか落ち着いてきましたが、2回の機内食も断り、やっとの思いで午後9時成田に帰ってきました。
こんな状況でしたので、観光地の記憶はあまり残っていませんが、巡ったところを若干紹介します。
12日ホテル出発前に大熊猫保護センターを見学しました。たくさんの大熊猫が飼育されていました。パンダ外交の主役となる子供の大熊猫は、一箇所に集められていました。ちょうど朝食時間で、竹を抱えるようにして食べている姿はとても愛らしいものでした。都江堰(トコーエン)を見学しました。
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朝食を待つ大熊猫 子供大熊猫の朝食
都江堰は、成都の西58Kmの都江堰市にあります、2,220年あまりの時を経た今日でも、成都の治水、灌漑、船運の機能を果たしています。
紀元前316年、秦は蜀を攻め、その領土とした秦の昭王が在任した後期(紀元前276年〜256年)蜀の郡守であった李氷(紀元前4世紀の生まれ)が、前代と当代の治水経験を取り入れて、この水利工事を成し遂げました。その工事の趣旨となるものは、民江を「外江」と「内江」に分け、外江は民江の本流で、洪水時は土砂混じりの激流がここを流れます。
内江は灌漑を主とする水路で、ここから水田に水を引いています。「宝瓶口」は、水の流量を調節し、船運と灌漑に役立てています。「飛沙堰」は、内江の過剰な水と土砂を外江に放流する役割があって。都江堰は中国水利史上のみならず、世界の水利史上においても自然破壊することなく、自然を利用した事業の典範であり、2,000年にユネスコ世界遺産に登録されています。帰国日の13日午前中は、武候祠と杜甫草堂を見学しました。
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都江堰 諸葛孔明 杜甫銅像
武侯祠
成都市の郊外に建つ、三国時代の蜀漢の宰相・諸葛亮(孔明)を祭る祠です。最初の祠は6世紀頃建てられました。明代に隣接する主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合されましたが、 孔明の贈り名である忠武侯にちなみ武侯祠とされました。
明代の戦火にあい、現存する建物は、清代康烈の、1672年に再建されたもので、3.7万uの広大な境内には、南から北へ延びる中軸線に沿って大門・二門。劉備殿・過庁・諸葛亮殿という五つの主体建築が並んでいます。
杜甫草堂
759年“詩聖”と呼ばれる唐の詩人、杜甫(712年〜770年)が安史の乱(755年〜763年)を避けて都の長安から成都に移り、翌年友人の協力を得て、市の西郊外の浣花渓のほとりに草堂を建てました。
何か不思議な因縁に道かれて一枚のCDと出会い、大姑娘山遠征がはじまり、5,025mに登頂できました。この遠征で感じたことは、挑戦すること・出会いを大切にすること・感謝の心でした。
何事も挑戦なくして為すことが出来ませんし、一枚のCDから宮崎さんと出会い、目的達成が出来たことは不思議な出会いからでした。また、遠征期間中のメンバーや中国の方の支援には感謝の一言です。そして、サミュエル・ウルマンの「青春」を思い出しました。
拙い山行報告連載でしたが、お読み下さいました方々に感謝申し上げ、キーボード打ち止めと致します。 有難う御座いました。【終】
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