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連載
平成つれづれ草子
井出 昭一■第1回 ニューイヤーコンサートと春第 1回:06.02.01 ニューイヤーコンサートと春
第 2回:06.02.15 モーツァルト・イヤー・2006年
第 3回:06.03.01 バッハを読み、バッハを聴く
第 4回:06,03.15 東京で近代建築を楽しむ
第 5回:06.04.01 岡田信一郎の名建築を訪ねて
第 6回:06.05.01 「明治生命館」…様式建築の最高傑作…
第 7回:06.05.15 知られていない大正期の名建築家…田辺淳吉…
第 8回:06.06.15 シニアライフを楽しむために…真向法体操のススメ…
第 9回:06.07.01 シニアライフを楽しむために…ウォーキングとライティングが健康の元…
第10回:06.07.15 和歌を楽しむ(1)…万葉歌人に詠まれた草花と樹木…
第11回:06.08.01 和歌を楽しむ(2)…万葉歌人の詠む愛の歌…
第12回:06.08.15 和歌を楽しむ(3)…万葉歌人の詠む叙景歌・叙情歌…
「春の海」から「春の声」へ
長い間、年の初めに耳にする代表的な調べは、宮城道雄の「春の海」でした。慌しかった年の瀬を過ごした後、元旦の早朝にテレビをつけると、決まって琴と尺八の「春の海」調べが流れていて年が改まったことを実感したものでした。ところが最近、年頭に聴く音楽は琴の音からオーケストラに変わりました。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニューイヤーコンサート」で正月を感じるようになり、「春の海」からヨハン・シュトラウスの「春の声」へと一変したのです。
クラシック・コンサートの人気の頂点に立つ「ニューイヤーコンサート」は、全世界50カ国に中継され、数億の人が視聴するという人気イベントで、いまや日本でもNHKの衛星生中継で元旦の恒例番組としてすっかり定着しいています。
その魅力は、なんといってもシュトラウス・ファミリーの華やかなワルツとポルカと元気はつらつの行進曲が中心となっていて、新年に聴く曲目としては最適なものばかりだからです。
魅力の第2は、会場となっている「ウイーン楽友協会大ホール」です。ここは「黄金ホール」とも呼ばれていて、音響の良さでは世界最高のコンサートホールであるとの定評のあるところです。ただ、現地に行っていない私には音の響きの良さを実感できませんが、デンマークの建築家テオフィル・ハンセンの設計によるギリシャ風ルネサンス様式の柱頭の彫刻、金箔が貼られた内装は華麗そのもので、イタリアから取り寄せたという見事な花を添えるのですからハイビジョンテレビでもその光景を充分楽しむことができます。
長い歴史とマエストロの登場
「ニューイヤーコンサート」は、1941年にウィーン生まれの指揮者クレメンス・クラウスによって始められ、第二次世界大戦による中止、ヨーゼフ・クリップスが指揮した2年間を除いて、1954年まで11回も指揮をしましたから、クレメンス・クラウスこそ生みの親ともいえる指揮者です。クラウスの亡き後を引き継いだのは、クラウスの下でコンサートマスターを務めていた生粋のウィーン子のウィリー・ボスコフスキーです。ウィリー・ボスコフスキーは、バイオリンを弾きながらその弓で指揮をするスタイルを確立し、1955年から1979年まで四半世紀、連続して25年間にわたって指揮をして、「ニューイヤーコンサート」の人気を世界的に高めた立役者でもあります。
クレメンス・クラウスとウィリー・ボスコフスキーの時代の「ニューイヤーコンサート」は記憶にありません。私が意識して聴いてビデオに収録し始めたのは、1983年のロリン・マゼールからです。ロリン・マゼールは、父のオランダ人と、ハンガリーとロシアの混血児の母の下にパリで生れ、国籍はアメリカにあって、イタリーに住んでいたという“超”多国籍人で、歴代の3人の指揮者がウィーン生れ、ウィーン育ちであった事から見ると、極めて異例のことだったと想像できます。しかし、マゼールは、1980年から1986年まで7年連続して指揮をとり、その後もたびたび登場して通算11回を数えるにいたっています。これは、ボスコフスキーの25回、クラウスの12回に次いで、他の指揮者と比べて群を抜いて多い回数です。この多国籍人もいまやすっかりウィーンに溶け込んでしまっているようです。
忘れられないカラヤンと小沢征爾の指揮
この指揮台に立つ指揮者は、ウィーンフィルの楽団全員の投票によって決められ、オーケストラと親密な関係にあって、同時にオーケストラにもなにかを貢献してくれる国際的水準の指揮者に依頼するのだそうです。クラウディオ・アバド、カルロス・クライバー、ズビン・メータ、リッカルド・ムーティ、ニコラウス・アルノンクールなど大指揮者が続々と招かれていますが、やはり強烈な印象を与えたのは、1987年のヘルベルト・フォン・カラヤンと2002年の小沢征爾です。
カラヤンは、当時84歳の高齢のため直前まで出演が危ぶまれていて、代役ズビン・メータが待機いていたようです。ふらつくような足取りで指揮台に辿り着き、手すりに寄り掛かりながら気だるそうに挨拶をされましたので、果たしてカラヤンは指揮棒が振れるのかとハラハラしながら見ていました。ところが最初の喜歌劇「こうもり」序曲を振り始めるとカラヤンはまるで水を得た魚のごとく豹変しました。「ピチカート・ポルカ」「常動曲」へと曲が進み、キャスリーン・バトルの「春の声」で最高潮に達しました。
「春の声」は本来、ソプラノとオーケストラのためにヨハン・シュトラウスが作曲したといわれますが、キャスリーン・バトルの軽快で透き通るようなコロラトゥーラ・ソプラノの響きはいつまでも耳に残って離れません。華やかなことこの上ない会場に真紅のドレスでさらに彩りを添えたキャスリーン・バトルの「春の声」は、最晩年のカラヤンの映像とともに永久不滅ではないかと思えてなりません。
2002年、日本人として初めて招かれた小沢征爾は、とても初舞台とは思えないほど実に堂々としていて、160年以上の歴史を有する世界最高峰のオーケストラ、ウィーン・フィルを相手に風格さえ感じさせる指揮が印象的でした。(写真はテレビ画面より)
今年の指揮者は、初登場のラトヴィア出身のマリス・ヤンソンス。シュトラウス一派以外の曲も何曲か選ばれて愉しみが増えました。今年はモーツアルト(1756.1.27〜1791.12.5)生誕250年記念の年ということもあって、後半2曲目に歌劇「フィガロの結婚」序曲が登場しました。これは「モーツアルト・イヤー」の冒頭を飾るにふさわしい曲だったと思います。モーツアルトに因むものとしては、ワルツ「モーツアルティアン」とか「芸術家カドリーユ」の中にもモーツアルトの有名なメロディーが何回も現れました。偶然ですが、この原稿を書いている1月27日はモーツアルトの誕生日でした。
“春”の名のつく名曲
ヨハン・シュトラウスの「春の声」は今年は二番目に演奏されました。オーケストラだけの演奏も悪くはないのですが、カラヤンとキャスリーン・バトルのコンビと比較してしまうとやはり物足りない感じを否めません。
春といえば、“春”の名のつく名曲は多いのに驚きます。歌曲では、シュトラウス「春の声」(作品. 410) のほかに、モーツアルトの「春への憧れ」(K.596)があります。晴れやかな春を感じさせてくれる曲です。これはモーツアルトが亡くなった年の1971年1月、傑作といわれる最後のピアノ協奏曲第27番(K.595)の第3楽章ロンドを子供のために判り易く作曲したといわれてます。最晩年、逆境にもかかわらずそんな情況を微塵も感じさせない澄み切った調べがどうして生れてきたのか不思議な曲です。また、メンデルスゾーンの無言歌(作品62-6)の「春の歌」も結婚行進曲と並んで親しまれているポピュラーな曲です。
ベートーベンのバイオリン・ソナタ第5番「春」(作品24)も春の雰囲気たっぷりです。これはバイオリンと管弦楽のための小品「ロマンス・ヘ長調」と並んで、甘く美しい旋律で、いわゆる重厚壮大なベートーベン風ではないところが好まれるところです。数ある演奏のなかで、ピアノのクララ・ハスキルと組んだアルテュール・グリュミオーのバイオリンに魅せられて、FM放送が始まったばかりの頃、オープンリールのテープに収録してテープが擦り切れるほど聞き入った曲でもありました。
このほか、ビバルディのバイオリン協奏曲「和声とインベンションの試み」の最初の4曲「四季」の「春」(作品8-1)、シューマンの交響曲第1番変ロ長調「春」、ストラビンスキー バレー音楽「春の祭典」、シューベルトの歌曲集「冬の旅」(作品911)の「春の夢」、歌曲「春の信仰」(作品686)などがあります。
モーツアルトと並んで私が最も好きなバッハの曲には残念ながら春の題名のついた曲は全く見当たりません。「春の小川」ではなく、“バッハ(bach=小川)の春”がいつの日か突然発見されると痛快ですが…。
ウイーンフィル・ニューイヤー・コンサートの歴代指揮者
西 暦 指 揮 者 回数 備 考 1941〜1944年 クレメンス・クラウス 4回 1941年ニューイヤーコンサートと呼称 1945年 (第二次世界大戦のため中止) - - 1946〜1947年 ヨゼフ・クリップス 2回 - 1948〜1954年 クレメンス・クラウス 7回 - 1955〜1979年 ウィリー・ボスコフスキー 25回 - 1980〜1986年 ロリン・マゼール 7回 - 1987年 ヘルベルト・フォン・カラヤン 1回目 ソプラノ:キャサリーン・バトル 1988年 クラウディオ・アバド 1回目 - 1989年 カルロス・クライバー 1回目 - 1990年 ズビン・メータ 1回目 東洋人として初登場(1936年インド生れ) 1991年 クラウディオ・アバド 2回目 モーツアルト没後200年記念 1992年 カルロス・クライバー 2回目 - 1993年 リッカルド・ムーティー 1回目 - 1994年 ロリン・マゼール 8回目 - 1995年 ズビン・メータ 2回目 - 1996年 ロリン・マゼール 9回目 - 1997年 リッカルド・ムーティー 2回目 - 1998年 ズビン・メータ 3回目 - 1999年 ロリン・マゼール 10回目 - 2000年 リッカルド・ムーティー 3回目 - 2001年 ニコラウス・アルノンクール 1回目 - 2002年 小沢征爾 1回目 日本人として初登場 2003年 ニコラウス・アルノンクール 2回目 - 2004年 リカルド・ムーティー 4回目 父ヨハン生誕200年記念 2005年 ロリン・マゼール 11回目 - 2006年 マリス・ヤンソンス 1回目 モーツアルト生誕250年記念 2007年 ズビン・メータ 4回目 (予定)
指揮者別登場回数
回数 指揮者 登場年 25回 クレメンス・クラウス 1941〜43、1948〜52年 12回 ウィリー・ボスコフスキー 1955〜79年 11回 ロリン・マゼール 1980〜86、94、96、99、2005年 4回 リッカルド・ムーティー 1993、1997、2000、2004年 3回 ズビン・メータ 1990、1995、1998年 2回 ヨゼフ・クリップス 1946、1947年 2回 カルロス・クライバー 1989、1992年 2回 ニコラウス・アルノンクール 2001、2003年 2回 クラウディオ・アバド 1988年、1991年 1回 ヘルベルト・フォン・カラヤン 1987年 1回 小沢征爾 2002年 1回 マリス・ヤンソンス 2006年
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■第2回 モーツァルト・イヤー・2006年
モーツァルトに惹かれて40年
ことしは、モーツアルトの生誕250年記念の年です。かつて1991年も、没後200年ということで、「モーツァルト・イヤー」としてのイベント・公演が世界的に盛り上がりましたが、ことしもその再来で、モーツァルト・ファンにとっては楽しみが溢れる年になりそうです。
モーツァルトの音楽の素晴らしさに一旦取りつかれると、その魅力から逃れることはできないといわれますが、例に漏れず私もそのひとりです。私がモーツァルトを聴き出したのは、今から40年前の昭和41年(1966年)1月からです。昭和39年に入社し、ようやく会社生活が落ち着いてきたので、元旦を期して毎年ひとりの作曲家に焦点を当てて徹底的に聴こうと計画しました。最初の年は親しみ易いモーツァルトを選び、その後、ベートーベン、ハイドン、チャイコフスキーなど、毎年対象とする作曲家を変えてゆくつもりでいました。
当時、始まったばかりのFM放送は、それまでの中波と違って雑音が入らないという点で画期的なものでした。「FMファン」という雑誌を購入してNHKとFM東海の放送番組を事前にチェックし、モーツァルトを聞き始めたわけです。ただ聴くだけでは曲を覚えないのではないかと思い、B6版の用紙に自分で独自のフォームを作り、日時、番組名、曲名、ケッヒェル番号、演奏者、指揮者、楽団、コメントなどを書き止めることに決めてスタートしました。
驚いたことにモーツァルトが登場することがあまりに多く、7ヶ月間で230曲のメモが溜まってしまうほどでした。重複する曲が多くなったこともあって、メモは止めることになりましたが“モーツァルト熱”は高まるばかりで、翌年も別の作曲家に移る事はなくモーツァルト、モーツァルトと続き、40年経過した現在でも“高熱”が継続中です。
したがって、今年は私にとってもモーツァルトに惹かれて40年という節目の年でもあります。
作曲年代を推定できる便利なケッヒェル番号
モーツァルトの作品には、ケッヒェル番号が付けられています。これは19世紀のオーストリアの自然科学者ルートウィッヒ・フォン・ケッヒェル(1800〜1877)がモーツァルトの全作品を整理して年代順に付けた番号です。モーツァルト以外のものが含まれていたり、逆に漏れてる作品もあったようですが、その後の研究で大幅に改訂され、モーツァルト愛好家にとっては、わざわざ曲名をいわなくても“ケッヒェル○○番”といえば通じるのですっかり定着しています。
例えば、K136、K137、K138と100番台の3曲のディヴェルティメントは軽快で若さいっぱいですが、これはモーツァルトが16歳のときの作品です。K191のファゴット協奏曲も何回聴いても聞き飽きのこない曲です。これも完成度の高い曲ですが、なんと18歳の時書いたものですから信じられないことです。このようにケッヒェル番号で凡その作曲年代が推定できるので大変便利な番号です。
神の子・神童・モーツァルト
有名な「レクイエム(K626)」が最後の曲ですが、実際にモーツァルトが作曲したのは626曲より遥かに多い700曲ほどだといわれています。作曲ばかりでなくモーツァルトは、生涯に400通の手紙を残しています。35年の短い生涯の三分の一は旅に明け暮れたということですから、モーツァルトは手紙を書くか、作曲をするか、そのいずれかだったのかと思いますが、映画の「アマデウス」を見ると、天真爛漫でその短い生涯を楽しんでいたようです。
モーツァルトの三大交響曲といわれる第39番変ホ長調(K543)、第40番ト短調(K550)、第41番ハ長調「ジュピター」(K551)は、1787年にわずか46日間で作曲しています。
とくに第39番は3〜4日で書きあげたと聞いてただ驚くばかりです。早いというだけではなく、その作品が比類なき傑作である点が驚嘆に値するところです。ベートーベンが「交響曲第九番(合唱)」を完成するのに6年以上の歳月をかけ、その構想のスケッチから計算すると12年近くを費やしていることと比べるとまさに対照的です。
「神の子」モーツァルトは、止めどもなく湧きでる楽想を五線譜にペンを走らせたのでしょう。それにも拘らずモーツァルトの原稿の譜面には書きなおした後が見られないほどきれいだったとのことです。神童とか天才ということばは、まさにモーツァルトのために作られたのではないかといえます。
魅力的な第二楽章の旋律
ベートーベン、チャイコフスキー、マーラーは重厚で荘重だといわれるのに対し、モーツァルトは、明るく、明快、わかり易い、愛らしい、やさしく微笑みかける音楽、みずみずしい詩と優しさ、神々しいまでの美しさと崇高さなど様々な賛辞が寄せられていますが、単に明るいというだけではなく、どこか痛切な哀しみを秘めた明るさともいわれています。
概して、モーツァルトのゆっくりしたテンポの第二楽章は親しみのある旋律が多く情感溢れるものばかりです。そのため、演奏の稚拙がはっきりするところでもあるため、聴く人にとっては極楽でも、演奏家にとっては地獄だともいわれているようです。
ピアノ協奏曲第20番(K466)の第二楽章は、あの「アマデウス」の最後の字幕のバックに流れ、続く第21番(K467)の第二楽章は、映画「短くも美しく燃え」のテーマとして耳に残っている名旋律です。このほか、フルートとハープのための協奏曲(K299)、ホルン協奏曲の5曲(第1番K412、第2番K417、第3番K447、第4番K495)、クラリネット協奏曲(K622)など管楽器の協奏曲のいずれの第二楽章も珠玉のメロディーだと思います。
小林秀雄の「モオツァルト」
モーツァルトのエッセイとして、最も名高いのは小林秀雄の「モオツァルト」です。文庫本で50ページですから、決して長い文章ではありませんが、「無常という事」と並んで小林秀雄の傑作に数えられています。
この執筆を考えたのは戦前の昭和17年(1942年)で小林秀雄が40歳のときで、昭和18年(1943年)、中国の南京旅行の際に書き始め、戦後の昭和21年12月、に雑誌「創元」の第1輯に発表されました。モーツァルトの作曲のスピードと比べると、小林秀雄が推敲の推敲を重ねた上に完成された練絹のようなエッセイで、ある書評によりますと「モーツァルトの音楽の本質を短調に見出し、・・・・行間からモーツァルトの音楽が響いて来るようなエッセイである」といわれています。その最後のところで、モーツァルトのレクイエム(K626)の「最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽に袂別(べいべつ)する異様な辛い音を聞き分けるであろう」と記しています。とても難解な表現です。
モーツァルトを評したことばとしては、有名なアインシュタインの「死とはモーツアルトが聞けなくなることだ」の方が、直接的で明快そのものです。逆に言うと、生きていることは、モーツァルトを聴けること、楽しめることです。
ことしは、その楽しみがいっぱいの年なのです。気張らずにモーツァルトを満喫したいものです。
モーツァルト名曲50選
番号 作品分類 ケッヒェル
番号曲名 階調 作曲年 コメント・演奏家など 1 教会音楽 626 レクイエム ニ短調 1791 最後の曲、未完。 2 教会音楽 339 ヴェスペレ(聖職者の盛儀晩歌) ハ長調 1780 (S)キリテカナワ
清澄・透明3 教会音楽 618 アヴェ・ヴェルム・コルプス - 1791 洗練された名作 4 交響曲 385 第35番「ハフナー」 ニ長調 1782 明るく力強い長大な曲 5 交響曲 543 第39番 変ホ長調 1788 別名:白鳥の歌。三大交響曲 6 交響曲 550 第40番 ト短調 1788 三大交響曲 7 交響曲 551 第41番「ジュピター」 ハ長調 1788 三大交響曲、
古典派交響曲の最高傑作8 管弦楽曲 136 ディベルティメント第1番 ニ長調 1772 明るく快活、若さ溢れる曲 9 管弦楽曲 137 ディベルティメント第2番 変ロ長調 1772 活気 10 管弦楽曲 138 ディベルティメント第3番 ヘ長調 1772 - 11 管弦楽曲 239 セレナーデ第6番
「セレナータ・ノットゥルナ」ニ長調 1776 - 12 管弦楽曲 250 セレナーデ「ハフナー」 ニ長調 1776 新鮮な曲想 13 管弦楽曲 334 ディベルティメント ニ長調 1779 優雅典麗、メヌエットが有名 14 管弦楽曲 361 セレナーデ第10番「グラン・パルティータ」 変ロ長調 1781 13管楽器のためのセレナーデ
多彩な音の遊び15 管弦楽曲 525 セレナーデ第13番
「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」ト長調 1787 充実した響き、完璧な形 16 管弦楽曲 299b バレエ音楽「レ・プティ・リヤン」 - 1778 愛らしい曲 17 管樂協奏曲 191 ファゴット協奏曲
変ロ長調 1774 18歳の作品、最初の管樂協奏曲
ギャラント様式の傑作18 管樂協奏曲 313 フルート協奏曲第1番 ト長調 1778 (F)マルセル・モイーズ
歴史的名演奏19 管樂協奏曲 314 フルート協奏曲第2番 ニ長調 1778 (原曲はオーボエ協奏曲ハ長調) 20 管樂協奏曲 314 オーボエ協奏曲 ハ長調 1778 (O)ハインツ・ホリガー 21 管樂協奏曲 299 フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 1778 (F)ランパル、(H)ラスキーヌ
最高の組合せ、ロココ調の最高傑作22 管樂協奏曲 412 ホルン協奏曲第1番 ニ長調 1782 (H)バリー・タックウェル 23 管樂協奏曲 417 ホルン協奏曲第2番 変ホ長調 1783 (H)バリー・タックウェル 24 管樂協奏曲 447 ホルン協奏曲第3番 変ホ長調 1783 (H)バリー・タックウェル 25 管樂協奏曲 495 ホルン協奏曲第4番 変ホ長調 1785 (H)バリー・タックウェル 26 管樂協奏曲 622 クラリネット協奏曲 イ長調 1791 (Cl)ジャック・ランスロ
最後の協奏曲、古今の絶品27 弦樂協奏曲 207 ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調 1775 (V)アルテュール・グリュミオー 28 弦樂協奏曲 211 ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ長調 1775 (V)アルテュール・グリュミオー 29 弦樂協奏曲 216 ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 1775 (V)アルテュール・グリュミオー 30 弦樂協奏曲 216 ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 1775 (V)アルテュール・グリュミオー 31 弦樂協奏曲 219 ヴァイオリン協奏曲第5番 トルコ風 イ長調 1775 (V)アルテュール・グリュミオー
最も完成度の高い作品32 弦樂協奏曲 364 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 1779 サンフォニー・コンセルタント
オイストラフ父子の名演奏33 ピアノ協奏曲 466 ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 1785 (P)イングリット・ヘブラー 34 ピアノ協奏曲 467 ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 1785 (P)イングリット・ヘブラー 35 ピアノ協奏曲 488 ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 1786 (P)イングリット・ヘブラー
クララ・ハスキル8歳でデビュー36 ピアノ協奏曲 503 ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 1786 (P)イングリット・ヘブラー 37 ピアノ協奏曲 537 ピアノ協奏曲 第26番「戴冠式」 ニ長調 1788 (P)イングリット・ヘブラー 38 ピアノ協奏曲 595 ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 1791 (P)イングリット・ヘブラー
「春への憧れ」に似たロンド主題39 室内樂曲 370 オーボエ四重奏曲 ヘ長調 1781 哀調に満ちた曲 40 室内樂曲 285 フルート四重奏曲 ニ長調 1777 (F)ジャン・ピエール・ランパル 41 室内樂曲 285a フルート四重奏曲 ト長調 1778 (F)ジャン・ピエール・ランパル 42 室内樂曲 285b フルート四重奏曲 ハ長調 1778 (F)ジャン・ピエール・ランパル 43 室内樂曲 298 フルート四重奏曲 イ長調 1778 (F)ジャン・ピエール・ランパル 44 室内樂曲 581 クラリネット五重奏曲 イ長調 1789 (Cl)ジャック・ブライマー 45 室内樂曲 301 ヴァイオリン・ソナタ ト長調 1788 (V)アルテュール・グリュミオー 46 ピアノ曲 331 ピアノソナタ第11番 「トルコ行進曲」 イ長調 1778 (P)イングリット・ヘブラー 47 ピアノ曲 545 ピアノソナタ ハ長調 1788 (P)イングリット・ヘブラー 48 ピアノ曲小品 265 12の変奏曲(キラキラ星変奏曲) ハ長調 1778 (P)ワルター・ギーゼキング 49 歌劇・劇音楽 492 「フィガロの結婚」 - 1786 三大オペラ 50 歌劇・劇音楽 527 「ドン・ジョヴァンニ」 - 1787 三大オペラ 51 歌劇・劇音楽 620 「魔笛」 - 1791 三大オペラ 52 声楽曲 596 春への憧れ - 1791 (S)シュワルツコップ
澄み切った音調、清澄なスタイル53 声楽曲 165 モテット「踊れ喜べ、汝、幸なる魂よ」 - 1773 (S)キャスリーン・バトル (注)K265、K299b、K596などの小品もあるので53曲を選曲
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■第3回 バッハを読み、バッハを聴く
音楽シリーズの第3話は、バッハを取り上げます。モーツァルトと並んで私の最も好きな作曲家がバッハです。
『バッハの思い出』でバッハに入門
モーツァルトに夢中だった私がバッハに惹かれたのは、「この本を読めば、必ずバッハが好きになります」といわれて敬愛する大先輩から1冊の本を頂いた時で、いまから40年ほど前のことでした。
その本とは『バッハの思い出』です。これはバッハ没後200年記念として、昭和25年(1950年)にダヴィッド社から出版されたもので、ドイツ語の原題「アンナ・マグダレーナ・バッハの小さな記録」を山下肇が邦訳したものでした。この本では、バッハの傑作が次々に生れた背景とか愛情溢れるバッハ家の心豊な生活が、二番目の妻アンナ・マグダレーナ・バッハの目をとおしていきいきと描かれていて、すっかりバッハのとりこになってしまいました。
「まことにこれくらい信頼と愛情に満ちた書は珍しい。……久しぶりに人間を書いた文章に接した気がして、ほのぼのと心が温まるのである。」という河上徹太郎の書評のとおり好評で、この本は毎日新聞出版文化賞を受賞されました。
小林秀雄も『モーツァルト』を執筆する数年前にこの『バッハの思い出』の邦訳初版(服部龍太郎訳、昭和11年10月、春陽堂刊)を読んで「バッハの音楽の不思議な魅力が、こんなに鮮やかに言葉に移されるとは殆ど奇跡だと云っては過言であらうか。・・・中略・・・夫人は夫の言葉に就いて、殆ど片言の様にしか語ってゐないが、その片言が、僕を、バッハの音へ誘ふ。」と称賛しているほどです。
この本の原著者は実はアンナ・マグダレーナ・バッハではなく、エスター・メイネルという女性で、イギリスで発表したこの伝記小説をドイツの出版社が意図的に著者名を伏せて出版したため、あたかもアンナ・マグダレーナ・バッハが書いたかのごとく伝わり混乱させてしまったようです。
いずれにせよ、この本は、温かい心の通った類まれな書であり、バッハの作品判りやすい解説書であることには変わりないのです。
音楽一家・バッハ一族
ドイツのチューリンゲン地方では、“バッハ”は“音楽”とほとんど同義語として通用していたといわれるほど、バッハ家は、優れた音楽家を多数輩出している家系として広く知られていました。1753年、バッハは50歳の時「音楽家系バッハ一族の起源」と題する系譜を著し、親族の男子53名に番号を付して論じているほどです。この中でバッハ自身は、ほぼ中央の第24番目に位置しています。
バッハ、正確にはヨハン・セバスチャン・バッハ(1685.3.21−1750.7.28)は、“ヨハン・コダクサン(子沢山)・バッハ”などと比喩されるごとく子宝に恵まれ、最初の妻マリア・バルバラとの間に7人、バルバラが急逝のあと再婚したアンナ・マグダレーナ・バッハとの間には13人の子供を儲けました。
バルバラとの子供7人のうち3人は夭折しましが、残された4人のうち長男のヴィルヘルム・フリーデマンは天才肌の音楽家で、活躍した地名をつけて「ハレのバッハ」といわれ、次男のカール・フィリップは、新しい音楽様式の代表者として父親をもしのぐほど有名だった時期もあり「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」ともいわれています。
二番目の妻アンナ・マグダレーナは、ソプラノの歌手でしたが、バッハと結婚後は、大勢の子育ての間にバッハの作品の写譜と浄書に努め、その筆跡はバッハ自身と間違えるほど忠実に写したとの評判でした。
アンナ・マグダレーナの子の中では、「ビュッケンブルクのバッハ」と呼ばれるヨハン・クリストフ・フリードリッヒ、「ロンドンのバッハ」「ミラノのバッハ」といわれる末息子のヨハン・クリスチャンが、音楽家として名を残しています。ヨハン・クリスチャンは、ロンドンで8歳のモーツァルトとも会って、この神童にも大きな影響を与えたともいわれています。
バッハは、1723年の38歳から65歳で世を去るまでの27年間、ライプチヒの聖トマス教会の付属学校カントル(合唱長)を続け、音楽教育者としても偉大な功績を残しています。個人としては作曲家・演奏家として、また家庭では大勢の子の父親と良き夫として、百点満点の比類ない人物だったのではないかと思います。
BWV:バッハの作品番号
モーツァルトの作品が作曲された年代を基準に付与されたケッヒェル番号で親しまれているのに対し、バッハの場合は、ウォルフガング・シュミーダーによって編纂された「バッハ作品総目録番号」(1950年)により、BWV(Bach Werke Verzeichnis)で、作曲年代の順序とは全く関係なく種類別に整理された番号で呼ばれています。
まず、教会カンタータ、世俗カンタータ、モテト、ミサ曲・マニフィカト、受難曲・オラトリオ、コラール・歌曲など声楽曲をまとめ、500番台から器楽曲に入り、オルガン曲、クラヴィーア曲、リュート曲となり、さらに1000番台からは室内楽曲、協奏曲・管弦楽曲、カノン・対位法的作品と分類されていますので、ケッヒェル番号とは異なった意味で便利な番号です。
バッハを聴き始めた頃は、私はBWV1000番台の曲を好んで聴いていました。いわゆる世俗音楽が中心で、バッハの協奏曲の頂点でバロック協奏曲の総決算・最高傑作などと云われる「ブランデンブルグ協奏曲」6曲(BWV1046〜1051)、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001〜1006)、チェロのレパートリーの最高峰「無伴奏チェロ組曲」(BWV1007〜1012)、「ヴァイオリン協奏曲」3曲(BWV1041〜43、1043は2つのヴァイオリン)、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」(BWV846〜869)などです。これらはいずれも、ケーテン時代の作品です。
1717年、32歳のバッハは、ケーテンの宮廷楽長の地位につき、音楽好きの領主がバッハの才能を尊敬し友人として厚遇したこともあって、恵まれた環境と満ち足りた生活の中で明るく力強い世俗音楽の傑作が数多く作られました。「わが生涯の最良の時代」とバッハ自ら語っています。
バッハの音楽は生涯の友
バッハの残した曲は、人類に与えられた不滅の傑作とか、永遠の生命を持つ音楽とか、あらゆる時代を越えて不滅の光を放つ巨大な作品などといろいろな賛辞で称えられています。
その中でも「マタイ受難曲」(BWV244)、「ミサ曲ロ短調」(BWV231)、「クリスマス・オラトリオ」(BWV248)の3曲が、バッハの教会音楽の頂点をなす曲であるばかりか、時代・国境・宗教を超えた最高峰の音楽ではないかと思います。
これらは名曲であるがゆえに、レコード・CDも数多く収録されていますが、その中で圧倒的に評価の高いのはカール・リヒターが率いたミュンヘン・バッハ管弦楽団とミュンヘン・バッハ合唱団によるものです。「マタイ受難曲」のレコーディングは1958年ですから、すでに半世紀前のことです。
“バッハ学” に関する私の個人教授の指示で購入したLPは、先の“三大教会音楽”を初め、カンタータの殆どは、アルヒーフのカール・リヒター盤ばかりで、私の頭の中では、バッハ=カール・リヒターという有様でした。そのリヒターが日本で公演するというので、日本で最高のバッハが聴けることを楽しみにしていたのですが、残念なことに来日を目前にした1981年2月、54歳の若さで心臓麻痺のため急逝されてしまったのです。これでリヒターのバッハを生演奏で聴くという私の夢は消え去ってしまいました。
しかし、わたしにとって最高の“バッハの思い出”は、1977年(昭和52年)に来日したハンス・ヨハヒム・ロッチュの率いる聖トマス教会合唱団の「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」を聴くことができたことです。それは聖トマス教会合唱団こそ、バッハが手塩にかけて育てた合唱団で、バッハの音楽を最も忠実に継承している演奏団体だったからです。
およそ3時間にも及ぶ「マタイ受難曲」も終局に近づき、第75曲のバスのアリアが終り、やがて終曲の有名な合唱が始まった時には、“このまま終ってほしくない、もっともっと続いて欲しい”と目頭が厚くなったことも、今となっては懐かしい“バッハの思い出”のひとつです。
私にとってバッハは生涯の友で、これからも絶えることなく聴き続けることになりそうです。
J.S.バッハの名曲選
・ 作品分類 BWV 曲数 曲 名 階調 作曲年 コメント・バッハ賛 1 教会カンタータ 4 1 キリストは死の絆につきたまえり - 1707? 最も有名なカンタータ
*「カンタータこそバッハの神髄」2 教会カンタータ 56 1 われら喜びて十字架を担わん - 1726 『十字架カンタータ』
独唱カンタータとして最も有名3 教会カンタータ 80 1 われらが神は堅き砦 - 1724? コラール・カンタータとして最も有名 4 教会カンタータ 106 1 神の時は最上の時なり - 1707? 『葬送カンタータ』 5 教会カンタータ 140 1 目覚めよと呼ぶ声あり - 1731 コラール・カンタータとして有名 6 教会カンタータ 147 1 心と口と行ないと生活をもって - 1726−28? 「主よ、人の望みの喜びよ」の
コラールで有名7 世俗カンタータ 202 1 いまぞ去れ、悲しみの陰よ - 1718
〜23?『結婚カンタータ』、春と青春を称えた曲 8 世俗カンタータ 211 1 そっと黙って、お喋りめさるな - 1734〜35? 『コーヒーカンタータ』、
世俗カンタータの2大傑作9 世俗カンタータ 212 1 おいらは新しい領主様を
いただいた- 1742 『農民カンタータ』、
世俗カンタータの2大傑作10 ミサ曲・
マニフィカト232 1 ロ短調『ロ短調ミサ』 - 1733、1747
-49、
1724宗教音楽の最高傑作。
過去に書いた曲を集めて
補ってまとめた曲11 受難曲・
オラトリオ244 1 マタイ受難曲 - 1736? バッハの教会音樂の頂点、
宗教音楽の最高傑作12 受難曲・
オラトリオ245 1 ヨハネ受難曲 - 1724 マタイ受難曲より劇的 13 受難曲・
オラトリオ248 1 クリスマスオラトリオ - 1734〜35 バッハの宗教作品の三大傑作、
人類に与えられた不滅の傑作14 オルガン曲 565 1 トッカータとフーガ ニ短調 1708? オルガン曲の代表曲 15 オルガン曲 645 1 コラール・プレリュード
『目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ』- - カンタータ140番の編曲 16 クラヴィーア曲 772
〜8615 インヴェンション 2声 (全15曲) - 1723 長男のために書いたクラヴィーア演奏・
作曲の音楽教科書17 クラヴィーア曲 787
〜0115 シンフォニア 3声 (全15曲) - 1723 18 クラヴィーア曲 806
〜116 イギリス組曲 (全6曲) - 1715? 洒落た優雅な曲。バロック組曲の頂点。
題名はバッハ自身がつけてものではなく、
作品の内容とも無関係。19 クラヴィーア曲 812〜17 6 フランス組曲 (全6曲) - 1722? 20 クラヴィーア曲 846
〜6924 平均律クラビーア曲集 第1巻
(24のプレリュードとフーガ)- 1722 ハ長調からロ短調までの24の音階を
使って作曲された画期的作品。
珠玉の名曲からなるチェンバロ曲集。21 クラヴィーア曲 870
〜9324 平均律クラビーア曲集 第2集
(24のプレリュードとフーガ)- 1738
-42ハ長調からロ短調までの25の音階を使って
作曲された画期的作品。
クラビーア曲の集大成。22 クラヴィーア曲 903 1 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 1720? 激しい情熱と奔放なファンタジーが溢れる
若き日のユニークな作品23 クラヴィーア曲 971 1 イタリア協奏曲 ヘ長調 1735 「イタリア趣味による協奏曲」とバッハが題した1台のクラヴィーア曲 24 クラヴィーア曲 988 1 ゴールドベルク変奏曲 ト長調 1741
−42カイザーリング伯爵の不眠症を
癒すために作曲25 クラヴィーア曲 992 1 最愛の兄の旅立ちに寄せて 変ロ長調 1704 すぐ上の兄ヨハン・ヤーコプのために作った
美しく繊細な曲26 室内樂曲 1001
〜066 無伴奏ヴァイオリンのための
ソナタとパルティータ (全6曲)- - チェリストのバイブル。無伴奏曲の神髄。
パブロ・カザルスが譜面を発見したことで有名27 室内樂曲 1007
〜126 無伴奏チェロ組曲 (全6曲) - 1720? チェリストのレパートリーの中で最高峰 28 室内樂曲 1031 1 フルートとチェンバロ
のためのソナタ変ホ長調 - 『シチリアーノ』の名旋律。
バッハの真作でないとの説もある。29 協奏曲・
管弦楽曲1041 1 ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 - ヴィヴァルディ影響を受けた協奏曲 30 協奏曲・
管弦楽曲1042 1 ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 - 31 協奏曲・
管弦楽曲1043 1 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 - ヴァイオリン協奏曲3曲中の最高傑作 32 協奏曲・
管弦楽曲1046
〜516 ブランデンブルグ協奏曲
(全6曲)- 1721
献呈バッハ協奏曲の頂点で、
バロック協奏曲の総決算33 協奏曲・
管弦楽曲1052 1 チェンバロ協奏曲 第1番 ニ短調 - 新作ではなく、旋律楽器のための既作の
協奏曲を編曲(BWV1061を除く)
BWV1065は、ヴィヴァルディの協奏曲を編曲34 協奏曲・
管弦楽曲1056 1 チェンバロ協奏曲 第5番 ヘ短調 - - 35 協奏曲・
管弦楽曲1060 1 2台チェンバロ協奏曲 ハ短調 - - 36 協奏曲・
管弦楽曲1061 1 2台チェンバロ協奏曲 ハ長調 - - 37 協奏曲・
管弦楽曲1063 1 3台チェンバロ協奏曲 ニ短調 - - 38 協奏曲・
管弦楽曲1064 1 3台のチェンバロ協奏曲 ハ長調 - - 39 協奏曲・
管弦楽曲1065 1 4台のチェンバロ協奏曲 イ短調 - - 40 協奏曲・
管弦楽曲1066
〜694 管弦楽組曲 (全4曲) - 1717
〜30?第3番のアリア「G線上のアリア」 41 カノン等
対位法的作品1079 1 音楽の捧げ物 - 1747 最晩年の器楽作品の超大作 42 カノン等
対位法的作品1080 1 フーガの技法 - 1745
〜50?最後の未完の大作
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■第4回 東京で近代建築を楽しむ
3回の音楽シリーズの後は、一転して建築…明治以降の近代建築…を取り上げます。長い会社生活で偶然にも転勤がありませんでしたので、東京で美術館探訪のかたわら、近代建築を訪ね歩くうちに“たてもの”も好きになってしまいました。
建築展と関連イベント花盛り
昨年以降、建築家に焦点を当てた展覧が東京で次々に開かれています。建築図面、写真、精巧な模型が展示され、関係する映像が投影されるなど、美術展とは異なり華やかさはありませんが、それなりに楽しめる展覧会です。
1997年ニューヨーク近代美術館[MoMA]の増改築の国際招待設計コンペで10人の建築家のなかで指名を獲得して一躍世界の話題を集めた谷口吉生、皇居新宮殿、奈良国立博物館新館、八ヶ岳高原音楽堂を設計した吉村順三、ル・コルビュジェの門下で上野の森に東京文化会館、国立西洋美術館新館、東京都美術館と大きな3つの建物を設計した前川國男、大正期の名建築として昨年末に重要文化財に指定された晩香盧と青淵文庫を設計した田辺淳吉(現在開催中です)などの建築家の展覧会が開かれ、同時に関連する講演会や記念シンポジウムも開催されました。
東京国立博物館の大講堂で開かれた谷口吉生氏本人の講演会、東京ステーションギャラリーでの前川國男展関連の2回連続の講演会では、参加者の半数以上が女性で占められ、その関心の高さに驚きました。
一昨年、上野の国立西洋美術館では「ぐるぐるめぐるル・コルビュジェの美術館」というユニークな企画がありました。これは、建物の中で16のチェックポイントを探訪して、ル・コルビュジェの建築を自分の眼で実際に確認することによって理解を深めようとするもので、例を見ないすばらしいイベントだったと思います。
これと同じようなイベント「博物館ってどんなところ? たてもの編 本館」が、現在、東京国立博物館で行われています。東博のシンボルともいえる本館をもっと詳しく知り、重要文化財としての建物自体を楽しもうというものです。平成館の1階の企画展示室には、本館の建設に関する資料、写真を始め、実際に使われている瓦や鬼瓦の一部も展示されていて、その大きさを実感することができます。また、建物の細部に施された美しい意匠や貴賓室を巡るセルフガイド・マップを配布したり、ボランティアによる「本館を歩くツアー」で本館の見どころの案内もしています。
近代建築をいつでもまとめて見学できるところは、小金井の「江戸東京たてもの園」です。ここには、江戸時代の農家から昭和初期の建物まで、木造の27棟が移築・復元されています。このうち近代建築としては、高橋是清邸、三井八郎右衛門邸、建築家の前川國男邸のほか、“看板建築”も移築されていて東京の下町の風情を楽しむ事ができます。ここでは、学芸員による園内の解説案内が定例的に行なわれ、ボランティア活動も充実していて建物を活用した各種のイベントが活発に開催されています。
東京で見学できる『近代建築』
東京では、昭和39年のオリンピックとその後のバブル期にかけて、古い建物が次々に取り壊され、新らに巨大な高層ビルが林立するようになりました。こうした時代の流れの中にあっても、歴史的に由緒あるにもかかわらず惜しまれながら姿を消してしまった建物も数多くあります。しかし、広い東京には、建てられた時代の趣を残し懐かしさを感じさせてくれる建物も残っています。そのような建物を訪ね歩くのも楽しいものです。
明治から大正を経て昭和の戦前期に、西欧の新しい技術、建築材料、意匠(デザイン)を用いて建てられた建築、いわゆる“西洋館”と呼ばれた建物が近代建築です。
日本の伝統的な建築、寺院・神社・城郭・住宅などは“木の文化”に象徴される木造建築ですが、西欧の建築は、石・煉瓦を積み上げた構造、鉄・ガラスなどの建材で、アーチ、ドームという形が取り込まれ建てられています。日本が外国に港を開いた横浜、長崎、神戸、函館、新潟の5都市は、西洋文明が日本に流入する窓口となったところであり、そこでは商館、住宅、教会、学校など外国人による西洋建築が数多く建てられました。
これらの西洋建築を参考にして、日本人が見よう見まねで建てたものは“擬洋風建築”と呼ばれています。本来の西洋建築の様式とはかけ離れていて、形だけの応用や和風の意匠と混用、木造漆喰(しっくい)塗りの外壁に隅石(すみいし)風の仕上げをしたり、ナマコ壁の建物に縦長窓や高い塔屋をのせたりして建てられたものです。初期の代表例は、二代目清水喜助による築地ホテル館、第一国立銀行ですが、現存するものとしては、信州松本の開智学校、佐久の旧中込小学校などがあります。
木造の擬洋風建築から煉瓦造りを経て、鉄筋コンコリート造り、さらには鉄骨鉄筋コンクリート造りへと建物の規模は大型化しデザインも変わってきていますが、明治以降の変貌する過程を東京都内でも観察することができます。
重要文化財指定の近代建築を見るのが効率よい方法です。現在、東京では20件(23棟)の建物が重要文化財に指定されています。その内訳は、木造が12棟、煉瓦造り7棟、鉄筋コンクリート造り1棟、鉄骨鉄筋コンクリート造り3棟となっています。(別表を参照)
この中で最も古いものは、明治8年に竣工した三田演説館です。福沢諭吉によって慶應義塾大学内に建てられた三田演説館は、日本で最初の演説会堂で、英語のspeechから“演説”という言葉が生れた場所でもあります。現在でも、毎年春秋の三田演説会、5月のウェーランド経済書講述記念日(注)の講演会に使われている現役の講演会場でもあります。
(注)この講述記念日は、慶應4年5月15日、上野の山で官軍と彰義隊の戦闘が行なわた戊辰戦争のさなか、福澤諭吉は新銭座の慶應義塾において土曜日の日課であるウェーランド経済書の講義を予定通り続けたことに由来するもので、毎年5月に記念講演が行なわれています。福沢諭吉は「上野と新銭座は二里も離れていて鉄砲玉の飛んでくる気づかいはない。……この塾のあらんかぎり大日本は世界の文明国である、世間にとんじゃくするな」と10数名の門弟を励まして平然と講義を続けたといわれています。なお、安田靫彦はこのウェーランド講述の状況を題材に日本画を描いています。
最も新しい建物は、昭和12年竣工(開館は翌13年)の東京国立博物館本館です。設計プランは昭和5年に公募され、応募した273案のなかから渡辺仁の案が1等に選ばれ、これを基に宮内省造営課が実施設計したものです。渡辺仁はGHQのあった日比谷の第一生命ビル、銀座の顔となっている和光(旧服部時計店)を設計した建築家としても知られています。
また最も大きいのは、「日本近代建築の父」と呼ばれる辰野金吾の設計による東京駅で、これは建築面積が7821u(2370坪)、間口は335mもある大駅舎でもあります。創建時には約930万個の煉瓦を使用したといわれ、わが国最大級の煉瓦造りの建物です。昭和20年5月の空襲で本屋の3階部分が焼失し、現在は八角屋根に簡略化された応急修復のままですが、今年の4月から創建当時の姿への復原工事に着手し、平成23年には、南北両改札口の帽子状の屋根が見ることができそうで今から楽しみです。
一方、最も小規模のものは田辺淳吉が設計した晩香盧(ばんこうろ)で72u(21.8坪)です。晩香盧は、渋沢栄一の喜寿を祝って、清水組(現:清水建設)4代目社長清水満之助が贈った建物で大正時代の名建築です。渋沢栄一は内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして愛用し、インドの詩聖タゴールも訪れています。
東京では、思いがけないところで興味深い建物に突然出会うことがあります。そこから新たな物語がはじまり、延々と尽きることはなさそうです。
[参考]文中の各展覧会・イベント等の開催概要は下記のとおりです。
A.現在開催中のもの
1)「企画展 田辺淳吉…晩香盧・青淵文庫をつくったひと…」(2006.3.4〜5.7王子 渋沢史料館)
2006.3.4〜2007.5.6の1年以上にわたり、
土・日・祝日12:30〜15:45 晩香盧・青淵文庫の内部を公開しています。
2)「博物館ってどんなところ? たてもの編 本館」
(2006.3.7〜4.23 東京国立博物館 平成館1階 企画展示室)
ボランティアによる「本館を歩くツアー」は、会期中の毎週水・土曜日 13:00から約40分間行われます。
3)「江戸東京たてもの園」(小金井市 毎週月曜日休園)
観覧料 一般400円、65歳以上の方は200円。
毎月第3水曜日(シルバーデー)は、65歳以上の方は無料。
B.終了したもの
1)「谷口吉生のミュージアム…ニューヨーク近代美術館[MoMA]巡回建築展」
(2005.4.8〜6.26 初台 東京オペラシティアートギャラリー)
2)「吉村順三建築展」(2005.11.10〜12.25 上野 東京藝術大学大学美術館)
3)「前川國男建築展…モダニズムの先駆者・生誕100年…」
(2005.12.23〜2006.3.5 東京ステーションギャラリー)
4)「建築探検…ぐるぐるめぐるル・コルビュジェの美術館」
(2004.6.29〜9.5 上野 国立西洋美術館本館)
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■第5回 岡田信一郎の名建築を訪ねて
たてものシリーズの第2話は、大正から昭和初期にかけて活躍した岡田信一郎を取り上げ、その名建築を訪ねることにします。
岡田信一郎は“様式建築の鬼才”とか“建築界の天才”といわれている建築家で、設計した建物は、大阪中之島中央公会堂(大正7年)、鳩山一郎邸(現:鳩山会館、大正12年)、歌舞伎座(大正13年)、明治生命館(重要文化財:昭和9年)と、建築様式的にも用途的にも全く別の種類にもかかわらず、それぞれの分野で高く評価されています。
鳩山一郎邸(現:鳩山会館、大正12年)
岡田信一郎が中学、一高、東大と同期の“竹馬の友” 鳩山一郎のために設計した住宅で、大正時代を代表する英国風の洋館です。別名「音羽御殿」ともいわれ、鳩山一郎が首相時代には政治の舞台ともなったところで、平成8年に大改修が行われ現在では鳩山会館として一般に公開されています。
1階の応接室2間の南側には鮮やかなステンドグラスが張り巡らされていますが、圧巻は階段室の途中に掲げられている大きなステンドグラスです。この制作者は美術学校出身の小川三知(1867−1927)で、アメリカでステンドグラスの技法を学び、帰国後の最初の作品が慶應義塾大学の旧図書館内のステンドグラスでこちらも一見に値する大作です。
家具類は、岡田信一郎の東京美術学校での教え子 梶田恵(1890−1948)がデザインしたものです。外壁には“鳩山”の名に因んで鳩のレリーフがあり、ステンドグラスにも鳩がデザインされ、ミミズクの彫刻、孔雀模様のテラスの金具など鳥をモチーフにした装飾が建物の随所に見られます。
音羽通りから坂道を登ってゆく桜並木のアプローチも素敵ですが、芝生の庭を取り囲む色とりどりのバラの園も見事な「音羽御殿」です。
歌舞伎座(大正13年)
桃山式に近代建築手法を加味した岡田信一郎の劇場建築の代表作です。鉄骨鉄筋コンクリート造の和風建築で、大きな空間に客席を設けるための工夫を凝らし、構造設計は内籐多仲が担当されました。大正13年(1924年)12月に完成し、翌年1月盛大な?落としが催されたそうです。昭和20年5月の空襲で被災し大打撃を受けましたが、昭和24年から25年にかけて、岡田門下の芸大教授吉田五十八の手により修復されました。焼け落ちた中央の大きな入母屋屋根は復元されませんでしたが、豪壮な桃山式の外観は蘇っています。
黒田記念室(昭和3年)
上野の杜には岡田信一郎の設計した東京府立美術館・黒田記念室・東京藝術大学陳列館の“ギャラリー三部作”といわれる建物が建っていましたが、東京府立美術館いまは東京都美術館(設計:前川國男)に建て替えられています。
黒田記念室は、岡田信一郎の設計による昭和初期の貴重な美術館建築です。日本近代洋画の父 黒田清輝(1866-1924)の遺言により、その遺産で昭和3年に美術研究所(現在の東京文化財研究所の前身)として竣工しました。全体に茶色のスクラッチタイル仕上げの端正なルネサンス様式のRC2階建で、復元整備されて、平成13年に国の登録文化財となりました。
ここでは黒田清輝の代表作「湖畔」「智・感・情」を含む油彩画126点、デッサン170点のほか、写生帳、書簡、写真などを所蔵しています。週2日(木・土)が公開日で入場無料です。展覧会の帰りに立ち寄ると、黒田清輝の名作をゆっくり拝見することができます。
東京藝術大学陳列館(昭和4年)
東京藝術大学の美術学部の門を入ってすぐ左側の建物が陳列館です。昭和4年竣工した西洋風の展示館で、近代美術館の展示空間の嚆矢ともいうべき建物で、スクラッチタイル仕上げ、トスカナ式の飾り柱、天窓があります。ここでは芸大の学生の卒業制作展が開催されます。
陳列館の東側にある和風の大きな入母屋の瓦屋根を持った正木記念館(東京美術学校第5代校長正木直彦を顕彰して昭和10年竣工)、ならびに岡倉天心像(平櫛田中作)が安置されている寄せ棟屋根の瀟洒な六角堂(昭和6年)は岡田の教え子・金沢庸治が設計したものです。
護国院の庫裏(昭和2年)
大黒天で知られる寛永寺の子院 護国院の本堂は、享保7年(1924年)の建造で密教堂形式の仏堂ですが、大正13年(1924年)第二東京私立中学校(現:上野高校)の建設に伴い現在地に移転されました。その移築工事を担当したのが岡田信一郎だとされています。岡田は引き続いて庫裏の新築設計を依頼され、昭和2年(1927年)に完成しました。
これも現在では登録文化財に指定されていますので、岡田信一郎が単に西洋建築ばかりでなく、伝統建築にも精通していた例を見ることができます。
修復、彫刻台座にも幅広く活躍
岡田信一郎は建物の新築ばかりではなく、関東大震災で打撃を受けたニコライ堂(重要文化財)の補修を手がけたり、銅像の台座設計も数多く残しています。藝大構内では橋本雅邦、川端玉章の胸像台座を設計していますが、最も大規模の台座は上野動物園入口の左側にある「小松宮彰仁親王銅像」(銅像制作は大熊氏廣)での台座です。
小松宮彰仁親王(1846−1903)は、伏見宮邦家親王の第8王子で、参謀総長、元帥、博愛社総長、日本赤十字社総裁を歴任され、赤十字関係者の発意で1912年銅像が建設されてものです。銅像は工部美術学校第1期生で近代彫刻の先駆者
大熊氏広(1856−1934)の手になるもので、靖国神社の大村益次郎像、有栖川宮公園の有栖川宮熾仁親王像、東博の表慶館前の獅子などが代表的なものです。
*次回は、岡田信一郎が心血を注いで設計し、日本での様式建築の最高傑作と評価される「明治生命館」を詳しく紹介します。
表−岡田信一郎設計の主な建物・銅像台座(現存)
・ 建物・
銅像台座所在地 完成年 ・ 施工・
制作者構造 備考 指定 公共・
商業大阪市
中央公会堂大阪 1918 大正7年 清水組 B3 明治45年設計コンペ
実施設計:
辰野片岡事務所・ 公共・
商業歌舞伎座 銀座 1924 大正13年 大林組 RC3 開場:大正14年1月 国登録文化財 公共・
商業旧橋本銀行
若松支店会津若松 1927 昭和2年 清水組 RC2 現:滝谷建設 市歴史的景観
指定建造物公共・
商業護国院
庫裏上野 1927 昭和2年 小林富蔵 W1 ・ 国登録文化財 公共・
商業鎌倉国宝館 鎌倉 1928 昭和3年 松井組 RC ・ 国登録文化財 公共・
商業黒田記念館 上野公園 1928 昭和3年 竹中工務店 RC2 ・ 国登録文化財 公共・
商業東京美術学校
陳列館上野公園 1929 昭和4年 ・ RC3 ・ ・ 公共・
商業復活大聖堂
(ニコライ堂)神田駿河台 1930 昭和5年 清水組 B 設計:コンドル
震災の修復重要文化財 公共・
商業博報堂 神田錦町 1930 昭和5年 戸田組 RC3 ・ ・ 公共・
商業湯町大丸温泉 筑紫野 1931 昭和6年 ・ W2 ・ ・ 公共・
商業浅草寺一山支院 浅草 1932 昭和7年 井原寅松 RC2 ・ ・ 公共・
商業明治生命館 丸の内 1934 昭和9年 竹中工務店 SRC8 ・ 重要文化財 公共・
商業琵琶湖ホテル 大津 1934 昭和9年 清水組 RC3 現:びわ湖大津館 市指定文化財 ・ 住宅 村井吉兵衛邸 永田町 1913 大正2年 戸田組 W2 担当:小林富蔵 国登録文化財 住宅 村上邸 紀尾井町 1922 大正11年 小林富蔵 ・ ・ ・ 住宅 鳩山一郎邸 音羽 1923 大正12年 ・ RC3 現:鳩山会館 ・ 住宅 岡田信一郎
別邸鎌倉 1926 大正15年 松崎武七 W2 ・ ・ ・ 銅像
台座小松宮彰仁
親王上野公園 1912 明治45年 大熊氏広 ・ 元帥陸軍大将、
参謀総長・ 銅像
台座橋本雅邦 東京芸術
大学1914 大正3年 白井雨山 ・ 美校教授、1908死去 ・ 銅像
台座川端玉章 東京芸術
大学1914 大正3年 武石弘三郎 ・ 美校教授、1913死去 ・
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■第6回 「明治生命館」…様式建築の最高傑作…
たてものシリーズの第3話は、岡田信一郎の遺作となった明治生命館(重要文化財:昭和9年)を取り上げます。
明治生命館の評価
日本の様式建築の最高傑作といわれる明治生命館は、「明治10年代以来、半世紀にわたる様式習熟の歴史に終止符を打った作品」で、「欧米の一流様式建築と比較しても全く遜色ない建築」(西洋建築史が専門の桐敷真次郎氏)とも評価されています。
岡田信一郎は、その完成を待たず昭和7年(1932年)に逝去されましたが、実弟の岡田捷五郎があとを引き継いで昭和9年(1934年)完成しました。平成9年には、昭和建築として初めて国の重要文化財に指定された名建築です。
明治生命館のコンペ
明治生命の旧本社はコンドルが設計した三菱二号館で、明治28年竣工の煉瓦造石張り3階建ての建物でした。業容の拡大に対応するため明治生命は新本社の建設を計画し、コンドルの愛弟子で建築顧問の曽禰達三(注)の推薦により、佐藤功一、鈴木禎次、渡辺節、桜井小太郎、渡辺仁、葛西田中事務所、横河事務所、岡田信一郎が指名を受け昭和3年コンペがおこなわれ、岡田案が採用されることになりました。
(注)曽禰達三(1852−1937年)
工部大学校の第一期生として明治12年卒業。辰野金吾、片山東熊と同期で、恩師のコンドルの紹介で明治23年に三菱に入社し、コンドル設計の三菱一・二・三号館に深く関与し、明治37〜38年には三菱四〜七号館を設計し、明治39年三菱を定年退社後は、後輩の中條精一郎と共同で曽禰・中條建築事務所を開設し、慶應義塾旧図書館(重要文化財)、明治屋ビル、小笠原伯爵邸などを設計しました。
昭和3年5月、明治生命館の建設が決まった当初の予定では、コンドルが設計した三菱二号館をそのまま保存し、隣接地に新社屋を建て新旧両館を併用し、将来、旧館を取り壊す際に新館を増築するという方針でした。
岡田は二号館を取り壊して、所有地全面に建てることを提案し、当時の武市利美明治生命会長の英断でそれが受け入れられました。岡田は三菱二号館の解体に際し、その設計に深くかかわった先輩の曽禰に許しを求め、「前の作品を超えるものを建てる」という条件で了承を得たともいわれています。曽禰は明治生命館の建設に際し、建築顧問を務め、高齢にもかかわらず熱心に現場に通ったそうです。
昭和5年9月着工しましたが、岡田は気管支炎がひどく病床に就く日が多く、昭和6年4月には早稲田大学教授を辞任し、東京美術学校には籍を置いたものの休職状態で、ほとんど寝たきりで外出も不可能になったようです。岡田は病床で図面に目を通し、明治生命館の工事現場の状況を16ミリ・フィルムに撮影させ、天井に工事の状況を写させながら竹の棒で細かな指示をされたといわれていますが、このフィルムは昭和初期のビル建設工事の状況を知る上で貴重な記録となっています。
昭和7年4月3日、岡田は定礎式(5月5日に予定)に使う香取秀眞作の斎鏝、斎鎚の図案の選定を行ない、翌4日午前3時49歳の若さで逝去されました。明治生命館の建設に心血を注ぎ、医師の忠告も聞き入れず悲壮な決意で仕事に打ち込んだため死期を早める結果となってしまったようです。岡田信一郎の遺徳を偲んで工事関係者はその胸像を南側の壁に密に埋め込んだという美談も伝わっています。
明治生命館の見どころ
明治生命館の外装で目を引くのは、アカンサス(地中海沿岸に生える大アザミ)の葉の飾りを最上部にいただく壮大なコリント式の列柱群です。(写真:上と中参照)日本で数あるコリント式でこれ以上のものはありません。列柱が支える天井に当たる部分には、水切りの溝が彫ってあって、雨水が決して中に流れ込まないようなキメ細かい配慮もされています。
ブロンズ製の外灯、入口の重厚な扉、アーチの窓のグリル(飾り格子)、店頭と2階の回廊のシャンデリアなど(写真:下参照)、いずれを見ても寸分のゆがみもない精巧な作りとなっています。これらの金属類は戦争中に撤去され供出されましたので、戦後これらを復元するに際し、腕利きの職人を集めるのに苦労されたようです。
内装についてみますと、1階店頭のカウンターは中国の天津産、壁はイタリア産、2階のマントルピースはイタリアとフランス産、エレベーターの周囲と1階応接室は日本の四国産といったように、各種の大理石がふんだんに使用されています。店頭の天井、壁・柱の装飾など細部にまでデザインが充実していて見飽きることはありません。
岡田は、設計に万全を期すため弟の捷五郎をアメリカ、カナダに派遣して最新のオフィスの設備を視察させ設計に採り入れています。病弱のため海外留学ができなかったにもかかわらず、読書熱心で海外建築事情に精通していて、実際に本物を見てきた捷五郎氏も脱帽するほどだったといわれています。
採用された設備を列挙しますと、停電後30秒で回復する自家用重油発電機、停電時に自動修正機能をもった電気時計、書類気送装置(張り巡らされた管で茶筒のような気送子に書類を入れて送る装置)、テロートグラフ機(一方で文字を書けば、離れたところでも同じ文字が書かれる装置)、一定の暗さで自動点灯する外部照明、冷水飲料水・給湯設備、セントラル・クリーニング設備(各階の事務室、廊下に吸い込み口があって、掃除機の先端部分を繋ぎさえすれば塵が一ヶ所に集められる装置)など、昭和初期とは思えないような最先端の設備が備わったハイテクオフィスビルでした。
さらに、応接、食堂、会議室などの机や椅子、飾り机などの2階の家具は、岡田の教え子の梶田恵が、部屋の機能を考慮しながら建物と調和するようデザインしたものです。
壮大・華麗な藝術建築をつくった人々
「明治以来の西洋建築技法習得の歴史の到達点あるいは総決算となった民間建築の最高傑作」を造りあげたのは、意匠設計の岡田信一郎をはじめ、構造設計は当時の最高権威者の内藤多仲、岡田信一郎亡きあとの設計監督の岡田捷五郎、建築顧問として高齢をおして尽力された当時の建築界の重鎮 曽禰達三、家具のデザイン 梶田恵、施工と維持管理 竹中工務店のスタッフなど、数多くの人々の叡智があってこそ可能だったといえます。
さらに、表には出ませんが、文字通り蔭で支えたひと忘れてはなりません。それは岡田信一郎の静夫人と明治生命の建築技師 大熊金治郎のふたりです。静夫人は、もと赤坂の芸妓・萬龍で日本一の美人と言われたひとで、岡田信一郎の厳しい指導で思い悩む若い建築技師に温かい言葉で励ましたといわれています。
また、大熊金治郎は70余歳の高齢にもかかわらず四国の石山を頻繁に往復し、良質の石材確保のため「石の大熊」といわれて石屋石工に恨まれるほど厳選峻烈を極めたとされています。
[明治生命館見学のお勧め]
明治生命館は、毎週土曜日と日曜日11時から17時まで、無料で一般公開しています。公開エリアは、1階店頭営業室、2階会議室、応接室、食堂などで、創建当時の設計図、写真なども展示されていますのでご覧下さい。
西暦 和暦 年齢 事 項
参考:竣工建物(設計者)
*は重要文化財1883 明治16年 0 11月20日、芝区宇田川町に生れる
父・憲吉は、陸軍薬剤監、上官の石黒忠悳がで名付け親鹿鳴館(コンドル) 1889 明治22年 6 ・ *明治学院インブリー館(設計:不明) 1890 明治23年 7 ・ *旧東京音楽学校奏楽堂(山口半六、久留正道) 1891 明治24年 8 ・ *ニコライ堂(シチュールポフ、コンドル) 1892 明治25年 9 ・ ・ 1893 明治26年 10 ・ ・ 1894 明治27年 11 (夫人 田向静生れる) 三菱一号館(コンドル)
日清戦争(明治27−28年)1895 明治28年 12 高等師範付属中学に入学。
鳩山一郎と同学年。司法省(エンデ、ベックマン) 1896 明治29年 13 ・ *日本銀行本店(辰野金吾)
*新宿御苑 旧洋館御休所(宮内省内匠寮)
*旧岩崎家住宅(コンドル)1900 明治33年 17 第一高等学校工科に入学 ・ 1903 明治36年 20 7月、一高卒業、
9月、東京帝国大学工科大学へ入学、
(塚本靖、中村達太郎、伊東忠太、佐野利器が教鞭)日露戦争(明治37−38年) 1904 明治37年 21 ・ ・ 1905 明治38年 22 ・ ・ 1906 明治39年 23 7月、大学卒業、卒業設計は「劇場建築」、
卒業論文は「建築音響学」、恩賜の銀時計を受賞帝国図書館[現:国際こども図書館]
(久留正道)1907 明治40年 24 5月、東京美術学校講師
(日本建築史、特別建築意匠、図案科生徒製図監督)・ 1908 明治41年 25 12月、東京銀行本店(清水組)竣工 *東京国立博物館 表慶館(片山東熊) 1909 明治42年 26 ・ 赤坂離宮[現:迎賓館](片山東熊)、
丸善(佐野利器)1910 明治43年 27 ・ *近衛師団司令部庁舎
[現:東京国立近代美術館工芸館](田村鎮)1911 明治44年 28 1月、早稲田大学建築学科講師兼任 帝国劇場(横河工務所) 1912 明治45年 29 1月、早稲田大学建築学科教授兼任
4月、大阪市公会堂の17名の指名コンペ、
最年少で指名され1等当選
小松宮彰仁親王銅像(製作:大熊氏廣)の台座設計*慶應義塾図書館(曽禰・中條事務所) 1913 大正2年 30 ・ 三井倶楽部(コンドル)
大阪市公会堂着工
(実施設計:辰野・片岡事務所)1914 大正3年 31 月刊誌「建築」を編集(大正7年まで)
橋本雅邦(製作:白井雨山)、
川端玉章(製作:武石弘三郎)胸像の台座設計*東京駅(辰野金吾) 1915 大正4年 32 1−3月、小田原に転地療養 ・ 1916 大正5年 33 ・ ・ 1917 大正6年 34 8月、田向静(萬龍)と結婚 *晩香盧(田辺淳吉) 1918 大正7年 35 ・ 大阪市公会堂(辰野・片岡事務所) 1919 大正8年 36 三輪田真佐子(製作:藤川勇三)銅像の台座設計 ・ 1920 大正9年 37 弟:岡田捷五郎、東京美術学校(建築専攻)卒業
石黒忠悳子爵(製作:武石弘三郎)銅像の台座設計・ 1921 大正10年 38 ・ *自由学園明日館(F.R.ライト) 1922 大正11年 39 10月、大阪高島屋(竹中工務店)竣工 三菱銀行本店(桜井小太郎) 1923 大正12年 40 10月、東京美術学校教授 丸ビル(桜井小太郎)、帝国ホテル(ライト)
9月、関東大震災1924 大正13年 41 鳩山一郎邸(施工:不明)竣工
歌舞伎座(構造設計:内藤多仲、大林組)竣工・ 1925 大正14年 42 ・ 東京大学安田講堂(内田祥三)
*青淵文庫(田辺淳吉)1926 大正15年 43 東京府美術館(大林組)竣工 聖徳記念絵画館(佐野利器) 1927 昭和2年 44 護国院庫裏(小林富蔵)竣工
橋本銀行若松支店(清水組)竣工早稲田大学大隈講堂(佐藤功一) 1928 昭和3年 45 明治生命館の指名設計コンペで1等当選
鎌倉国宝館(松井組)竣工
黒田記念館(竹中工務店)竣工学士会館(高橋貞太郎) 1929 昭和4年 46 東京美術学校陳列館(施工:不明)竣工 *三井本館(トロブリッジ、リビングストン) 1930 昭和5年 47 ニコライ堂(清水組)修繕
博報堂(戸田組)竣工
浅草寺一山支院(井原寅松)竣工
9月12日、明治生命館着工・ 1931 昭和6年 48 4月、早稲田大学建築学科教授辞任
(東京美術学校には籍を置いたが休職状態)東京中央郵便局(吉田鉄郎) 1932 昭和7年 49 虎屋(小林組)竣工
4月4日、午前3時死去
4月6日、護国寺にて告別式、約2000人が参列
墓地は護国寺、墓碑は生前に本人がデザインしたもの
5月5日、明治生命館定礎式服部時計店(渡辺仁) 1933 昭和8年 山一證券(清水組)竣工 朝香宮邸(宮内省内匠寮) 1934 昭和9年 3月31日、*明治生命館竣工
(構造設計:内藤多仲、竹中工務店)
4月14日、明治生命館修祓式築地本願寺(伊藤忠太) 1935 昭和10年 ・ ・
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■第7回 知られていない大正期の名建築家…田辺淳吉…
たてものシリーズの第4話は、大正期の名建築家・田辺淳吉を取り上げます。
田辺淳吉とは?
田辺淳吉(1879−1926)は、一般にはあまり知られていないようです。それは現存する建物が多くないことと、47歳という若さで亡くなったことによるものです。しかし、「意匠を凝らした建物を設計した建築家」、「どこかに艶消しでソフトな小品によって深い印象を与えた建築家」、「西洋建築の素養の上にたった和風趣味あるいは東洋趣味への親近感が漂っている建築家」などといわれ、知る人ぞ知る大正期に活躍した名建築家です。
田辺淳吉の設計した現存する代表作は、誠之堂、晩香盧、青淵文庫です。いずれも国の重要文化財に指定されてる大正期を代表する建築で、渋沢栄一にゆかりある建物ばかりです。明治以降の近代建築を設計した建築家で、3件も重要文化財に指定された建物を設計しているのはこの田辺淳吉のみです。
しかも、誠之堂はレンガ造、晩香盧は木造、青淵文庫は鉄筋コンクリート造と3件とも構造が異なる建物ですから、まさに田辺淳吉は大正期を代表する名建築家といわれるのも当然なことです。
誠之堂…レンガ造の華
誠之堂は、第一銀行の創立者で初代頭取の渋沢栄一の喜寿を記念して、第一銀行の行員が醵金により、大正5年(1916年)に完成しました。これはレンガ造平屋建てで112u(約34坪)の集会施設で、当初、東京都世田谷区瀬田に建てられましたが、平成11年8月、渋沢栄一の生誕の地である埼玉県深谷市に移築・復元されました。
外観は、イギリスの農家風とし、室内の装飾には中国、朝鮮、日本などの東洋的な様々な意匠を取り入れていますが、それらがバランスよくまとめられていて、平成15年5月に国の重要文化財に指定されました。
誠之堂の見どころは、“レンガのまち深谷”で焼かれたレンガの壁です。それは、焼成時の温度差による色のバラツキを活かした窯変レンガのリズミカルな美しさにあります。暖炉の背面の北側外壁には、化粧レンガによる装飾積みで「喜寿」の中国風装飾文字が表されています。
「化粧の間」と「大広間」のステンドグラスも魅力的です。ここには中国風のモチーフで、漢代の貴人と侍者、歌舞奏楽の図が描かれています。
大広間の天井は、円筒型の漆喰天井(ヴォールト天井)で、雲鶴文様と松葉の彫刻の縁で両側に喜寿の「喜」の字が配された朝鮮風で、「次の間」は、日本風の網代天井で数奇屋造りを取り入れています。
晩香盧…数奇屋風の木造洋館
晩香盧は、東京都北区西ヶ原の飛鳥山公園の一画にあります。ここは渋沢栄一の本邸「曖依村荘(あいいそんそう)」があったところで、約8500坪の広大な屋敷内に日本館と西洋館、茶室「無心庵」などがありましたが、昭和20年4月の空襲で殆どに建物が焼失し、晩香盧と青淵文庫のみが残りました。
誠之堂と同様に、晩香盧も渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して、合資会社清水組(現在の清水建設株式会社)の4代目当主・清水満之助が栄一に贈った和洋折衷のバランスのとれた洋風茶室です。1917年(大正6年)4月に着工し、7ヵ月後の同年11月に竣工しました。
建坪72u(約22坪弱)ばかりの木造平屋建ての建物です。小さな建物とはいえ、建材の選択、細部に至る意匠、色の取り合わせ、家具の考案に至るまで、和風、洋風、中国風が見事に調和して、建築家田辺淳吉のこだわりが随所に見られる味わい深い建築でもあります。
建物の外部は、軸組には固くて狂いの少ない栗材を使い、屋根は赤茶色の塩焼き瓦で葺き、レンガ組みの暖炉の煙突が突き出ていてアクセントをつけています。外壁の角は焼き過ぎレンガで固め、外壁は鉄粉を醤油に漬けて錆が滲み易いようにした京錆壁とし、建物の周囲は氷裂形の鉄平石で敷き詰めています。
内部の見どころとしては、萩の茎を使った腰羽目、漆喰の浮き彫り模様が施された船底型天井のほか、喜寿の「喜」の字が正面にデザインされた暖炉、暖炉の両側の小窓と洗面所の扉のステンドグラスなどです。ステンドグラスには落ち着いた色調の淡貝をスライスしたものが使われるなど、ここにも設計者のこだわりが現れています。
最も注目すべきところは、柱の角はもちろん、広間の扉、机、椅子、配膳室の食器戸棚、洗面所と配膳室の扉の格子など栗材の角という角はすべて「なぐり仕上げ」という手斧(ちょうな)で丹念に面取りが施こされていて、設計者の心にくいまでの細かい配慮を伺うことができます。
さらに晩香盧では「建築と工芸の提携」という新しい試みがなされています。晩香盧の完成時の「献品目録」には、津田青楓、藤井達吉による卓上敷き・クッションなどの染織作品、川上邦世の木製煙草入れ、近森岩太、石田英一、高村豊周(光太郎の実弟)による金工作品、磯矢完山の皮細工品、福田直一、河合卯之助、清水六兵衛、富本憲吉(注)による各種陶芸作品など、各備品の作家と作品明細、点数が記載されているそうです。これら工芸家の人選は、中條精一郎の指名により、明治44年に清水組設計部に一時在籍していた富本憲吉とも相談したといわれています。
これらの工芸品が晩香盧に揃って並んだらまさに壮観ですが、残念ながら今では想像するしかありません。
(注)富本憲吉(1886−1963)
模様から作陶に入った陶芸家で、その代表的な創作模様は四弁花模様、羊歯模様です。「模様より模様を造るべからず」として、生涯にわたり創作模様の立場を貫きました。陶芸のみならず、木彫、染織、刺繍、皮工芸、家具、版画など広範囲にわたるデザインや工芸品制作に積極的に取り組んだことでも有名です。
東京美術学校図案科で建築の主任教授だった大沢三之助の勧めで、1911年(明治44年)1月、清水組で設計の仕事に従事したといわれ、欧米視察から帰国後の田辺淳吉は富本憲吉と交流があってその影響を受けたとも思われます。昭和30年(1955年)色絵磁器の技術保持者として、第1回重要無形文化財(人間国宝)に選定され、昭和36年(1961年)には文化勲章が授与されました。
青淵文庫…洗練された最後の傑作
青淵文庫は1925年(大正14年)渋沢栄一の傘寿(80歳)と男爵から子爵への陞爵(しょうしゃく:爵位が上がること)を祝って、当時の竜門社(現在:財団法人渋沢記念財団)が贈った建物です。完成目前の大正12年9月の関東大震災で被害を受けたため工事はいったん中断し、基礎部分からの再工事となり、大正14年5月に竣工しました。そのため、青淵文庫には被災経験を活かして、分厚い壁、鋼鉄製の扉、亀甲型の網入りガラスなど地震・防火に対する配慮が随所にみられます。
建物としての青淵文庫の見どころは数多くありますが、あえて2点に絞るとしますと、ステンドグラスと装飾タイルです。
建物の南面には列柱の囲まれた4ヶ所の窓と扉があり、その上部の大きな窓にはステンドグラスが嵌められています。中央の2枚の中心部分には渋沢家の家紋の「丸に違い柏」に因んで、柏の葉4枚とドングリが4個、その上に「壽」の字をデザイン化したものがあり、左右両端には建物を寄贈した竜門社に因み左端に下り竜、右端に昇り竜がデザインされています。この1枚の窓には約1000ピースの色ガラスが使われていて、色・形に加えて、その細工の技術は驚くばかりです。
また、列柱に張り巡らされているタイルも見事なものです。ステンドグラスと同様に柏の葉とドングリを巧みに組合せ、淡い緑の柏の葉に対してドングリは金色に焼き付けられています。建物の完成以来80年の風雨に晒されてきたため、外部のタイルの金色は退色していますが、室内のタイルには、金色が残っていて往時の華やかさの片鱗を伺うことができます。
[あとがき]
田辺淳吉に関する文献はあまり多くありませんが、手元にある資料を基に人脈の関係図と系譜を作って見ましたのでご参照ください。
最近、田辺淳吉に関する研究が急速に進み、新しい事実の発見とこれまでの修正が行われる可能性があるようです。それだけに楽しみが増えそうです。
今回は建物を中心に述べて、田辺淳吉の生涯、渋沢栄一との関係、それぞれの建物に関するエピソードなどは省略しました。
田辺淳吉年譜 2006/5/16 22:12
西暦 和暦 年齢 事 項
(イタリック体の建物は現存しない)参考:竣工建物(設計者)
*は重要文化財1879 明治12年 0 6月26日、父:田辺新七郎、母:房の4男として
東京本郷西片町で生れる。
父は福山藩士、維新後、宮内省図書助。・ 1883 明治16年 4 ・ 鹿鳴館(コンドル) 1889 明治22年 10 ・ *明治学院インブリー館(設計:不明) 1890 明治23年 11 ・ *旧東京音楽学校奏楽堂(山口半六、久留正道) 1891 明治24年 12 ・ *ニコライ堂(シチュールポフ、コンドル) 1892 明治25年 13 父:田辺新七郎逝去、55歳 ・ 1894 明治27年 15 ・ 三菱一号館(コンドル)
日清戦争(明治27−28年)1895 明治28年 16 ・ 司法省(エンデ、ベックマン) 1896 明治29年 17 ・ *日本銀行本店(辰野金吾)
*新宿御苑 旧洋館御休所(宮内省内匠寮)
*旧岩崎家住宅(コンドル)1900 明治33年 21 東京帝国大学工科大学建築学科入学
(辰野金吾、伊東忠太、中村達太郎に建築学を学ぶ)・ 1901 明治34年 22 ・ ・ 1902 明治35年 23 ・ ・ 1903 明治36年 24 7月、東京帝国大学工科大学建築学科卒業
(同期の佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、北村耕造、
松井清足などと「丼会」を結成し交遊)
10月、清水満之助店(大正4年から清水組、
昭和21年から清水建設)入社
(同期の北村耕造も入社)日露戦争(明治37−38年) 1904 明治37年 25 ・ ・ 1905 明治38年 26 大阪瓦斯会社竣工 ・ 1906 明治39年 27 日本女子大学成瀬記念講堂竣工 帝国図書館[現:国際こども図書館]
(久留正道)1907 明治40年 28 11月、藤井清(明治21年11月23日生れ)と結婚 ・ 1908 明治41年 29 ・ *東京国立博物館 表慶館(片山東熊) 1909 明治42年 30 5月、東海銀行本店ー東京ー竣工
(大正12年関東大震災で倒壊)
6月、第一銀行下関支店竣工
8月、清水組支配人原林之助に随行して渡米
(渋沢栄一団長の渡米実業団)
11月、単独でシカゴ経由して欧州
(ロンドン、パリ、ベルリン、ウイーンなど)を視察
渋沢倉庫竣工(岡本?太郎と協同設計)赤坂離宮[現:迎賓館](片山東熊)、丸善(佐野利器) 1910 明治43年 31 10月、帰国 *近衛師団司令部庁舎
[現:東京国立近代美術館工芸館](田村鎮)1911 明治44年 32 4月、「工学士田辺淳吉君欧米視察旅行報告」
『兼喜会会報』第12回帝国劇場(横河工務所) 1912 明治45年 33 第一銀行釜山支店竣工
大阪市公会堂指名コンペに応募(岡田信一郎が第1席)*慶應義塾図書館(曽禰・中條事務所) 1913 大正2年 34 10月、清水組第5代目技師長(支配人と同格)に就任
11月、東洋生命保険京城支店竣工三井倶楽部(コンドル)
1914 大正3年 35 12月、高岡共立銀行(現:富山銀行)本店竣工 *東京駅(辰野金吾) 1915 大正4年 36 ・ ・ 1916 大正5年 37 11月、誠之堂竣工 ・ 1917 大正6年 38 11月、*晩香盧竣工 ・ 1918 大正7年 39 ・ 大阪市公会堂(辰野・片岡事務所) 1919 大正8年 40 川喜田邸洋館改装設計担当 ・ 1920 大正9年 41 4月、清水組退社
池田侯爵邸竣工・ 1921 大正10年 42 2月、中村田辺建築事務所開設
(恩師中村達太郎と協同)
6月、『田辺淳吉作品集』佐藤功一編、洪洋社
6月、日本倶楽部竣工*自由学園明日館(F.R.ライト) 1922 大正11年 43 東京會舘竣工 三菱銀行本店(桜井小太郎) 1923 大正12年 44 4月、東京市政調査会会館競技設計に応募、
入選第2席丸ビル(桜井小太郎)、帝国ホテル(ライト)
9月、関東大震災1924 大正13年 45 11月、第一銀行小樽支店(現:協同組合神装)竣工
旧増田邸竣工・ 1925 大正14年 46 *青淵文庫竣工 東京大学安田講堂(内田祥三) 1926 大正15年 47 7月13日逝去 聖徳記念絵画館(佐野利器)
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■第8回 シニアライフを楽しむために…真向法体操のススメ…
シニアライフを満喫するに前提は心身の健康です。今回は、私の健康管理のひとつである真向法体操を取り上げます。
真向法体操とは
平成15年1月から真向法体操を始めて早くも3年以上経過しました。そのため、現在の体調は極めて快調です。真向法体操とは、腰(股関節)を柔軟にすることによって、姿勢を良くし、心身をリフレッシュして、「健やかな体・康らかな心」を目指すものです。
健康法としての真向法の特徴は、@わずか4つの動作を繰り返すだけでわかり易い、A畳1枚のスペースで場所をとらない、B跳んだり跳ねたりしないので静かである、C器具・道具を使わない、D老若男女が誰でもひとりでできる……などを挙げることができます。言い換えれば、「だれでも、いつでも、どこでも手軽にできる和風ストレッチ体操」だともいえます。
最近、新聞・雑誌・テレビなどで、太極拳、ヨガ、ストレッチなど各種の体操・健康法が頻繁に紹介されていますが、いずれも真向法の4つの動作(体操)がその基本となっているのではないかと思われます。
真向法の効果
“石の上にも3年”といわれるように、最近になって真向法の効果が現れてきたようです。
その第1は、長く歩いても疲れなくなったことです。古寺巡り、美術館巡りで1日に2万歩以上歩くことがありますが、翌日の筋肉痛や疲れがなくなりました。効果の第2は、パソコンを長く続けても肩がこらなくなったことです。パソコンを続けるときには、途中で数分間、真向法を実行しますとリフレッシュ体操になり、能率も向上します。3番目は、良く眠れるようになったことです。さらに、正座が楽にできるようになったこと、背筋が伸びて姿勢が良くなったなども挙げられます。このように、続ければ効果が実感できるようになったので、今では朝夕の真向法が私の不可欠の日課となっています。
教室では、基本となる4つの動作のほかに、二人がペアとなって行う「補導体操」を教えていただいています。時々、自宅でもこの「補導体操」をおこなって家族から感謝されていますが、これも真向法のお陰かと思います。
真向法を始めた契機
私が、真向法を始めたキッカケは、会社の先輩から紹介していただいたときからです。会社も定年となって運動不足の解消と健康管理を兼ねて、何かやろうと思っていた矢先だけに絶好のタイミングでした。紹介していただいた先輩は、毎週金曜日、大宮の自宅から1時間近くかけて教室の開かれている新宿の朝日カルチャーセンターまで10年以上も通っているということですから、よほど魅力があるものに違いないと思ったからです。
「体操教室」と名前がついていましたので、先生が大勢の生徒に一方通行的に教えるかと思っていました。ところが、初めて教室に入ってみると、先生と生徒がなごやかに明るい雰囲気の中で話し合っているので驚きました。当時、新入会員は私のほかは1人のみ、あとは経験者ばかりで、そのうち10年以上の経験者が何人もおられて、他の教室では先生をされている人もいるというので、一瞬、場違いのところへ入会したのではないかとさえ感じたほどでした。
そのうえ、講師として指導される先生は、社団法人真向法協会の佐藤良彦副会長が直接教えていただくということで、誠に恵まれた教室であることが判りました。その佐藤副会長は新人の私にまで声を掛けていただき、入会早々、私は真向法のとりこになってしまったようです。
ユニークな真向法教室
真向法の朝日カルチャーセンター・新宿教室の会員は30名程度で決して多くはありませんが、そのうち男性が3分の2を占めていて全国に数ある真向法教室のなかでもきわめてユニークな教室です。
特色の第二は、唯一都心の高層ビル(新宿住友ビル)の朝日カルチャーセンター内に教室を構えていることです。窓越しに壮大な東京都庁を眺め、晴れた日には遠く富士山、秩父連山を望みながらの真向法はまさに爽快な気分になります。
第三の特色は、指導に当たられるのが佐藤良彦副会長と佐藤康彦指導部長という豪華布陣です。佐藤副会長の歯切れの良いユーモアたっぷりのお話を聴きながらの真向法は実に楽しいもので、われわれ生徒にとって、毎週金曜日は本当に贅沢な90分を過ごすことができるのです。こうした魅力的な教室ですから、東京都内ばかりではなく埼玉、千葉、神奈川から1時間以上もかけて熱心に通う生徒もいるほどです。また、都内、近県の教室で先生をされている高段者も、この教室ではひとりの生徒として参加されています。
四番目の特色は、真向法の終了後、自主的な懇親の場があるということです。自主的といっても会長、副会長、会計担当など世話役の分担がしっかりときめられた「組織集団」なのです。
楽しい教室外活動
教室は毎週金曜日10時から11時30分ですが、終了後、有志が参加して新宿駅西口近くでの昼食会となります。ここでは、腰のきいた讃岐うどんと、ビールが二人で1本という割り当てで、会費は千円均一です。真向法で全身をほぐした後のビールの一口はまさに生気を取り戻す一瞬でもあります。毎週金曜日の正午前に十数人の固定客が来るので、店の方も大歓迎です。
昼食を終えると、今度は近くのコーヒー専門店に行きます。会員の中には、食通、旅行通、文学通のほか、釣り、カメラ、美術など通人も多くいつも話題が多彩で、教室では交わせない楽しい会話が次々に飛び交い笑顔が絶えません。
コーヒーを飲みながらの歓談のなかで、年初に開く「望年会」、新宿御苑での「花見の会」、「暑気払いの会」など懇親会の企画も自然にまとまってしまいます。こうした懇親会は、OBの皆さんにも参加を呼びかけ、出席された先輩から貴重な体験談を拝聴したり、佐藤副会長にも東奔西走の忙中の間にご参加いただいていることも本当にあり難いことです。
朝日カルチャーセンター・新宿教室では、単に集まって体操、会食をするだけではなく、「カルチャーセンター」の名前に恥じないような文化の香りの高い真向法教室を目指そうと、互いに知恵を出し合っています。これまでに、上野の東京国立博物館、東京都美術館の展覧会の見学、江戸深川歴史探訪など、それぞれが情報を交換しながら楽しい教室外活動を行なってきました。
毎年秋に開催される真向法研修全国大会の前後には、朝日カルチャー教室独自のオプション旅行が企画され、これが楽しい年中行事となっています。ことしの全国大会は広島ですので、いまから行き先をめぐって、コーヒーを飲みながら話合っているところです。
今年は教室が開かれて20年ということで、ひとつの節目ではありますが、これからも真向法を通じ、いきいき、はつらつ、すこやかなグループを末永く継続して行きたいというのが全員の願いでもあります。
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■第9回 シニアライフを楽しむために…ウォーキングとライティングが健康の元…
シニアライフを満喫するための前提条件は心身ともに健康なことです。今回は、真向法体操と並んで私の健康管理のひとつとしてのウォーキングとライティングを取り上げます。ウォーキングとは身体を動かす運動で、ライティングとはエッセイを書くことによる頭の体操です。
ゴルフを卒業して美術館巡りに集中
会社生活で、最盛期には年間40回近くもプレーを続けてきたゴルフをやめて約10年になります。やめた理由は、肩を痛めたということが直接の原因でしたが、痛みがなくなった後プレーを復活しなかったのは、ゴルフのプラス面とマイナス面を考えるとマイナスのほうが多いと考えたからです。確かに、フェアーウエーやグリーンを歩くのは健康的で気分も爽快になりますが、一方、時間とお金と自信という大切なものを同時に失ってしまうことが確実だからです。
ゴルフを卒業したあと、頻度が急増しているのは、美術館と展覧会巡りです。ウォーキングということを重視しているため、あえていろいろなところへ足を向けています。
ゴルフは丸一日がかりでパートナーが必要です。コンサートも好きですが、時間に拘束され、運動不足になりがちです。その点、展覧会は、会期中であれば都合の良い時に、半日でも数時間でも可能です。一人でも良いのですが、気の会う友人となら楽しさは倍増します。したがって、美術館巡りは、得るところばかりで、失うものはないのではないかと思います。名品にめぐり合って感動する喜び、新たな発見をして知ることの充実感、友人となら会話の楽しみと情報交換もできます。
美術館巡りに要する費用としては交通費と入館料で、ゴルフより遥かに低廉です。私は東京都民でなく、70歳以上でもないので、残念ながらシルバーパスは使えませんが、スイカ、パスネット、バス共通券を活用しています。この3枚を持っていれば都内と近郊では、現金で乗車券を買わなくてすむので便利だからです。
入館料は、各館により格差がありますが、国立公文書館のように誰でも無料で入館できて思いがけないものに出会うこともあります。渋谷区立松濤美術館は、60歳以上は無料です。無料だからといってもレベルが低いわけではありません。現在開催中の「骨董誕生」(2006.5.30−7.9)は、その企画がユニークで内容も充実していて見どころも多く本当に楽しめる展覧会でした。
美術館関係者や知人から招待券をいただいた場合は、ウォーキングの目的ができたと思って必ず行くことにしています。招待券のなかで「1名同伴」というのがあれば、同好の知人を誘うことにしています。チケットをいただいた方に義理を果たすと同時に、誘った方からは感謝され一石二鳥です。
展覧会・美術館巡りに加えて建物探訪
最近では、展覧会・美術館に加えて、建物探訪、庭園・茶室巡りも加わり、ウォーキングの目的が拡大しています。歩数も増えて一日2万歩近くになることもあります。
美術館巡りをしているうちに、美術館の設計は有名建築家の設計によるものが多いことが判ってきました。そこで美術館の建築に興味を持ちはじめることになり、歴史的建築、特色ある建築、庭園・茶室などのタウンウォッチングをデジカメ携帯で見歩いているわけです。
現在は、金曜日の午前中は真向法体操に通っていますので、午後はなるべく私流のウォーキングである美術館、建物巡りに務めています。
6月を振り返って見ますと、最初の金曜日の2日は、真向法体操の朝日カルチャー教室のかねてからの企画の隅田川の橋巡りに参加しました。「駒形どぜう」で食事のあと、日本橋三越で開催中の「三浦小平二展」を見ました。舟での橋巡りにもかかわらず、浅草寺界隈を丹念に散策したため、歩数は15600歩にも達していました。
9日は日本民藝館に行きました。これは、NHKの新日曜美術館で、柳宗悦の自宅が復元修理を終えて公開されていることを知ったからです。この日は雨天にもかかわらず大勢の人が押し寄せて、民藝館が人で溢れるのを初めて見ました。ついでに旧前田侯爵邸(洋館、和館)、日本近代文学館と閑静な駒場周辺を歩きました。
翌週16日は雨揚りの蒸し暑い日でしたが、念願であった町田市鶴川の武相荘(白洲次郎、正子の旧宅)へ知人と誘い合わせて行きました。鶴川駅の近くの香山美術館は開館日でありながらなぜか閉ざされていて内部は見学できませんでした。
23日は信濃町から聖徳記念絵画館、明治記念館、代々木上原の東京ジャーミイ・トルコ文化センター、渋谷区立松濤美術館、戸栗美術館と回ってきました。この日は、ひとりで黙々と暑い中を歩き、確実に25000歩を超えていたと思いますが、万歩計の電池切れで正確な歩数はわかりません。
エッセイの連載は頭の体操
現在、このメルマガIDNと私が勤務していた会社のOB会ホームページに毎月2回ずつエッセイを連載しています。自ら定めた大枠の中で、テーマを選定し骨組みを考え、肉付けをし、さらに実際に見て歩いて、関連の写真を撮る…ということは結構大変です。しかし、書くために歩き、歩きながら考えることが習慣のようになって来ています。往復の電車の中ではプリントアウトした草稿を持ち歩き、推敲を重ねることにしています。何回書きなおしても気に入らないこともあります。しかし、文章の表現、言い回しを考えたり、不明な点を調べたりして定期的にエッセイを書くということは、使わなくなった頭を動かし、脳をきたえ直す良いチャンスだと考えています。
私がエッセイを書くプロセスは、調べる→歩く→見る→撮る→取り込む→整理する→組み立て→書く→調べる→・・・というように、この繰り返しです。
緊張が続くとストレスとなりますが、定年後の生活では適度の緊張感を持つことが生活の節目となっています。確かに毎月4本のエッセイを書き続けることは負担であります。しかし、締切りが節目で、節目があるから生活に張りがあり、健康の基にもなっています。自分の足を使って材料を集め、思い通りに動かなくなっている頭をなんとか使いながらエッセイをまとめる。健康のためにこれからも頑張って続けたいと考えています。
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■第10回 和歌を楽しむ(1)…万葉歌人に詠まれた草花と樹木…
和歌の魅力
和歌は好きです。古い歌でも、新しい歌でも。和歌は小説と違って、わずか31文字で完結する世界でも例のない日本独特の文芸です。日本人でなければ味わえないものです。和歌よりさらに短いのは17文字の俳句ですが、季語や詠まれている言葉の背景、前提条件を知らないと本当の意味が判りません。文章の「行間を読む」といわれますが、俳句の場合は「字間」を読まなければ、作者の意図を理解できないことがしばしばです。一部の和歌にもその傾向がありますが、俳句より遥かに理解しやすいのが和歌で私が好むひとつの理由です。
さらに、名歌集といわれるものは、そのほとんどが文庫本、新書版などに収められていますので、持ち歩きにも便利です。厚さも手ごろで、最初から読んでも良く、飛ばし読みもできます。かばんやポケットに忍ばせていけば、電車の中、待ち合わせのひとときにも手軽に楽しめるのが歌集です。
歌集も、万葉集から始まり、古今和歌集、新古今和歌集……、明治以降も、正岡子規、島木赤彦、斎藤茂吉、若山牧水、会津八一……と続きますが、どうしても原点の万葉集に戻ってしまいます。
万葉集…和歌の原点・日本人の心の源流…
万葉集は、8世紀以来いまなお読み継がれて、日本人の心に生きている歌集です。和歌の原点・日本人の心の源流でもあります。万葉集の全20巻には、天皇から庶民まであらゆる階層で詠まれた4500余首が蒐められています。歌は、恋愛中心の贈答歌である「相聞(そうもん)」、人の死を悼む「挽歌(ばんか)」、相聞・挽歌以外の「雑歌(ぞうか)」の3部立で編纂されています。 長い年月を経ても色あせず、いまなお光り輝き、心を揺さぶる秀歌がちりばめられているのが万葉集なのです。
万葉集に詠まれた植物はおよそ160種といわれています。ただ現在の名前と異なるものも多く、確定できず諸説があるものがいくつもあります。ひまにまかせて「万葉集事典」(中西進編、講談社文庫)で、どのような樹木、草花が万葉集という土俵に登場するのか数えてみました。番付で横綱は萩で130首、これに次ぐ大関が梅で110首余でした。3位の関脇は「ぬばたま(射干玉)」で、なじみないものですが、植物としての「ひおうぎ」を詠んだものではなく、ほとんどが夜とか黒の枕詞として使われているものです。これに、松、橘と続きます。意外だったのは、桜です。花といえば桜。首位は当然だと思い込んでいたからです。柳と並んで39首、第9位で前頭の中ほどにようやく顔を出しているといったところです。
(注1)万葉植物園
万葉集に詠われた植物は、“万葉の故郷”の奈良公園、甘樫丘のほか、東京でも、板橋区立赤塚植物園内の万葉・薬用植物園、国分寺市の万葉植物園でもまとめてみることができます。
(注2)和歌は、本来縦書きです。ここでは横書きのため、読みやすくするために、勝手に字開けをしました。引用した歌の最後の( )内は、万葉集の巻の番号と通し番号です。万葉集の歌は、「自分の声で歌い、くり返し口ずさんでいると歌の内容はおのずから胸にしっとりと熟してくるはずである」(岡野弘彦)そうですから、万葉植物の詠まれた歌を列挙します。
万葉歌人に詠まれた草花と樹木
萩の歌は、数が多い割りには有名なものが少ないようです。山上憶良が秋の七草を詠んだ2首の歌碑が奈良公園内にあります。
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種の花
(巻8−1537 山上憶良)
萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(巻8−1538 山上憶良)
こちらは、五七七・五七七の旋頭歌の形で、その中に秋の七草を詠みこんでいます。ただし、最後の朝顔の花は、桔梗なのか、朝顔なのか、昼顔・むくげなどいろいろな説があって特定できないようです。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見るひとなしに
(巻2−231 笠金村)
これは笠金村(かさのかなむら)が、志貴皇子を死を悼んだ長歌に併せて作った反歌です。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
(巻5−822 大伴旅人)
大伴旅人が大宰府の自邸に九州諸国の官人を招いて盛大な梅の花の宴を開いた時に詠まれた32首の内の1首です。
居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも
(巻2−89)
ぬばたまは黒髪の枕詞です。
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く
(巻6−925 山部赤人)
ここでは夜の枕詞です。「久木(ひさぎ)」は植物で、赤芽柏(あかめかしわ)といわれているものです。
磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む
(巻2-141 有間皇子)
これに続く次の歌も有名です。こちらには椎が詠まれています。
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(巻2-142 有間皇子)
この歌に関して、正岡子規は、昔は食物を木の葉に盛ったこともあったが、5月5日に柏の葉に餅を包んで祝うという名残をとどめているのはゆかしいことだとして、かしわ餅の歌を10首作っています(明治34年)。
椎の葉に もりにし昔 おもほえて かしはのもちひ 見ればなつかし
白妙の もちひを包む かしは葉の 香をなつかしみ くへど飽かぬかも
いにしへゆ 今につたへて あやめふく 今日のもちひを かしは葉に巻く
わらびを詠って早春をさわやかに称えた歌があります。
石走る 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも
(巻8−1418 志貴皇子)
巻8の巻頭「春雑歌」を飾る志貴皇子の歌です。早春のすがすがしい状況が目に浮かびあがる歌です。「垂水の上の さ蕨の」と美しいリズムを刻み、「なりにけるかも」と余韻を残している歌でもあります。
これが新古今和歌集では、
岩そそぐ 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかな
(巻1−32 志貴皇子)
となって登場しますが、万葉集の方が、数段優れているのではないかと思います。
志貴皇子の影響を受けたと見られる2首も好きな歌です。
高槻の 木末にありて 頬白の さへつる春と なりにけるかも
(島木赤彦)
最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも
(斎藤茂吉)
斎藤茂吉は、「なりにけるかも」を好んで用いていますから、よほど気に入ったのでしょうか、あちこちに登場し、歌集「あらたま」(大正2〜6年)には「・・・けるかも」で終る歌が9首も詠まれています。
松かぜの おともこそすれ 松かぜは 遠くかすかに なりにけるかも
(「つゆじも」大正10年)
焼けあとに 草はしげりて 虫が音の きこゆる宵と なりにけるかも
(「ともしび」大正14年)
万葉集にすみれの歌はわずか4首ですが、山部赤人の歌が有名です。
4首連作のうち、最初と4首目はすみれと春菜の草を詠み、中の2首は桜と梅の木の花を詠んでいます。
春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける
(巻8−1424 山部赤人)
あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いたく恋ひめやも
(巻8−1425 山部赤人)
我が背子に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば
(巻8−1426 山部赤人)
明日よりは 春菜摘まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
(巻8−1427 山部赤人)
万葉植物の真打として登場するのは馬酔木(あしび)です。あせび、あしみ、あせぼともいわれています。馬酔木を有名にしたのは、反逆の罪で殺された弟・大津皇子のために大伯皇女が詠んだ挽歌です。
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに
(巻2-166 大伯皇女)
万葉集の中には馬酔木を詠んだ歌が11首収められていますが、以後の歌集には登場していないそうです。有毒で馬が食べると麻痺するので嫌われたのでしょうか。また、大伯皇女は毒があることを知っていて馬酔木を手で折ったのでしょうか。
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■第11回 和歌を楽しむ(2)…万葉歌人の詠む愛の歌…
万葉集には、相聞(そうもん)と挽歌(ばんか)があります。相聞は男女の間で贈答された恋の歌です。挽歌は人の死を悼んで詠まれた歌です。男女、夫婦、親子、姉妹兄弟の愛を詠んだ歌、いずれも人が人を愛することから湧き出てきた万葉歌人の素直な感情が表されています。時代をこえて日本人の心を揺さぶり、感動を与え続けてきた歌ばかりです。
日頃、親しんでいる歌を並べて見ました。
注1.読みやすいように句毎に区切り、原文には適宜ルビを付しました。
2.歌の冒頭には★を付け、( )内には、巻と歌番号、作者名を表記し、[ ]内は訳文です。
3.読み方、歌の解釈については、諸説ありますが、私の判断で書いてみました。
4.間違い、偏見もありますので、ご指摘いただければ幸いです。
1.男女のなかをもやはらげる歌
初期万葉随一の女流歌人額田王(ぬかたのおおきみ)から大海人(おおあまの)皇子(みこ)(後の天武天皇)へ贈った歌です。相聞歌としての最も代表的な歌であり、万葉集を代表する歌としてもあまりにも有名で、どの解説書にも取り上げられています。
★ あかねさす 紫野ゆき 標(しめ)野(の)ゆき 野(の)守(もり)は見ずや 君が袖ふる
(巻1−20 額田王)
[美しく最も高貴な色の紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられている野を行き、あなたがしきりに私に袖を振るのを、野の番人が見るではありませんか。]
これに対して、大海人皇子が額田王へ返した歌。
★ 紫草(むらさき)の にほえる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋めやも
(巻1−21 大海人皇子)
[美しい紫草のように匂い立つようなあなたが憎いのなら、もう人妻であるあなたに、私がどうして恋をするでしょうか。]
額田王は天智(てんじ)天皇(てんのう)(中大兄皇子)に対しても次の歌を詠んでいます。
★ 君待つと わが恋ひをれば わがやどの すだれ動かし 秋の風ふく
(巻4−488 額田王)
[わが君がいらっしゃっていただけるのかと恋こがれて待っていますと、わが家の簾を秋の風が通り抜けてゆきます。]
次は大津皇子(おおつのみこ)(天武天皇の皇子)と石川郎女(いしかわのいらつめ)との間で交わされた恋の歌。
★ あしびきの 山のしづくに 妹(いも)待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに
(巻2−107 大津皇子)
[山の木々から雫が落ちてくる所で、あなたを待って立ち続けていました。その雫にすっかり濡れてしまいました。]
★ 我(わ)待つと 君が濡れけむ あしびきの 山のしづくに ならましものを
(巻2−108 石川郎女)
[私を待っていて、あなたは濡れてしまったという、その山の雫になってあなたに寄り添っていたかったのに……。]
この石川郎女に対して、大津皇子と皇位継承についてはライバルの関係にあった異母兄弟・草壁皇子(くさかべのみこ)も想いを寄せています。「彼方(おちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の」は、「束の間」の序詞です。
★ 大名児(おほなこ)を 彼方(おちかた)野辺(のへ)に 刈る草(かや)の 束(つか)の間(あひだ)も 我れ忘れめや
(巻2−110 草壁皇子)
[大名児よ(石川郎女の通称)、私は方時でもあなたのことを忘れることがあるでしょうか。]
続いて、但馬皇女(たじまのひめみこ)と穂積皇子(ほずみのみこ)の許されない恋の歌。穂積皇子は天武天皇の皇子、但馬皇女も天武天皇の皇女で、二人は異母兄妹の間柄。当時は母親が違えば結婚も許されたので、こうした兄妹の恋愛も多かったという。但馬皇女は異母兄高市皇子(たけちのみこ)の妻だったので、その恋は評判だったようですが、そんな噂をものともしないで次のように詠んでいます。
★ 人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
(巻2−116 但馬皇女)
[世間の噂がうるさいので、…女の私が…生れて初めて夜明けの川を渡ってあなたに逢いに行きます。]
★ 言繁(ことしげ)き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁(かり)にたぐひて 行かましものを
(巻8−1515 但馬皇女)
[私たちのことについて、あれこれ噂が多すぎます。こんなうるさいところに住むのは止めて、今朝鳴いていた雁と一緒に飛んでいってしまいた
いのに。]
その但馬皇女が亡くなったあと穂積皇子が哀しんで涙を流して詠んだ歌。
★ 降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の 猪(い)養(かい)の岡の 寒くあらまくに
(巻2−203 穂積皇子)
[降る雪よ。そんなに沢山降らないでほしい。あの人(但馬皇女)が眠る吉隠の猪養の岡は寒いだろうから。]
女流歌人・笠郎女(かさのいらつめ)が大伴家持へ贈った24首の歌群があります。これは個人の歌群としては万葉集最大のものです。激しい思いを寄せながら報われない気持を訴え続ける歌が並んでいます。その代表的な歌です。
★ 我がやどの 夕(ゆう)蔭(かげ)草(くさ)の 白露の 消(け)ぬがにもとな 思ほゆるかも
(巻4−594 笠郎女)
[我が家の庭で、夕やみのかすかな光のなかの草に置かれた白露のように、消え入ってしまうほどあなたを思っています。……それにもかかわらず、あなたは……]
これに対して家持は冷ややかです。それに応えた歌2首のうちの1首です。
★ なかなかに 黙(もだ)もあらましを 何すとか 相見そめけむ 遂げざらまくに
(巻4−612 大伴家持)
[むしろ黙っていた方が良かったのに、なぜ逢ってしまったのだろう。添い遂げられない定めだったのに……。]
大伴家持の叔母で、万葉後期を代表する女流歌人大伴(おおともの)坂上郎女(さかうえいらつめ)は、長歌短歌併せて80首あまりが万葉集に採られていて最後を飾る歌人・大伴家持に次いで第2位です。当然、女性としては最多で、万葉集随一の相聞歌の詠み手ともいわれています。大伴旅人の妹で石川郎女の娘でもありますから、大伴家は万葉集の成立に関係している「万葉歌文学」の名家のようです。
大伴坂上郎女が藤原(ふじはらの)麻呂(まろ)の歌に答えて贈った歌。
★ 千鳥鳴く 佐保の川瀬の さざれ波 やむ時もなし 我(あ)が恋ふらくは
(巻4−526 大伴坂上郎女)
[千鳥の鳴いている佐保川の川瀬に立つさざ波のように、私の恋心は片時もやむ時はありません。]
この歌に続いて、「来(こ)」という字を各句の頭に読み込んだ技巧的な戯れ歌も作っています。
★ 来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを
(巻4−527 大伴坂上郎女)
[あなたは、来ようといっても来ないときもあります。今夜は来ないというのでお待ちしませんよ。来ないといわれるのですから…。]
★ 青山の 横切る雲の いちしろく 我と笑(え)まして 人に知らゆな
(巻4−688 大伴坂上郎女)
[青い山を横切る雲が白くて目立つように、私に微笑み交わして周りの人に知られませんようにしてください。]
万葉第三期の代表歌人で大伴家として最初に登場する大伴旅人は、酒を讃むる歌13首が有名ですが、亡き妻を偲んで詠んだ8首があります。その2首。
★ 妹(いも)と来し 敏(み)馬(ぬめ)の崎を 帰るさに ひとりし見れば 涙ぐましも
(巻3−449 大伴旅人)
[妻と二人で来た敏(み)馬(ぬめ)の崎を、帰りには自分独りで見るので涙ぐんでしまいます]
★ 我妹子(わぎもこ)が 植えし梅の木 見るごとに 心咽(む)せつつ 涙し流る
(巻3−453 大伴旅人)
[私の妻が生前植えた梅の木を見るたびに、胸が一杯になって涙に咽んでしまいます。]
2.夫婦の愛
仁徳天皇の皇后磐(いわの)姫(ひめの)皇后(おおきさき)が、夫の仁徳天皇への深い愛情を表した4首で、巻2の「相聞の部」の巻頭におかれています。
★ 君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
(巻2−85 磐姫皇后)
[あなたが行かれてから、もう何日も過ぎてしまいました。山の中を尋ねて行こうかしら。それともじっと待っていようかしら。]
★ かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて 死なましものを
(巻2−86 磐姫皇后)
[これほどまで恋続けていないで、いっそ、高い山の岩を枕にして、死んでしまいたいのに。]
★ ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く わが黒髪に 霜の置くまで
(巻2−87 磐姫皇后)
[このまま、いつまでもあなたをお待ちしましょう。長く靡いている私の
黒髪が霜のように白くなるまで。]
★ 秋の田の 穂の上の霧(さ)らふ 朝霞(あさかすみ) いつへの方(かた)に 我(あ)が恋やまむ
(巻2−88 磐姫皇后)
[私のあなたへの恋心はどこへ消えて行くのでしょう。秋の田の稲穂の上に重くのしかかる朝霧のように、決して消えそうにはありません。]
巻14には、「東歌(あずまうた)」が収録されています。これは特定の作者が無く、地方色豊な内容のものが多く含まれています。その中で若い妻が夫を気遣って詠んだ歌2首。
★ 信濃道(しなのぢ)は 今の墾(は)り道 刈りばねに 足踏ましなむ 沓はけわが背
(巻14−3399 東歌)
[信濃の道は、通じたばかりに道ですから、切り株が沢山ありますよ。足を痛めないように沓をはいていってください。私の最愛の夫よ。]
★ 信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ
(巻14−3400 東歌)
[信濃の千曲川の小石でも、いとしいあなたがお踏みになったものなら、玉として拾いましょう。]
3.親の子に対する愛しみ
万葉集に収められた山上憶良の歌は80首あまりで、柿本人麻呂、大伴坂上郎女とほぼ同じです。現代人にも親しまれる歌が多く残されています。家族を大切にする憶良の真面目な性格がにじみ出ている歌です。
★ 憶良らは 今はまからむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ
(巻3−337 山上憶良)
[私・憶良はもう失礼して退席しましょう。今頃は子供が泣いているでしょう。また、その母も私の帰りを待っているでしょうから。]
子どもへの想いを詠んだ歌として止めを刺すのは、憶良の「子等を思ふ歌一首併せて序」でしょう。
★ 瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食(は)めば まして偲ばゆ いづくより
来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ
(巻3−802 山上憶良)
[瓜を食べれば子供のことが思われます。栗を食べればさらに子供のことが思われます。子供はいったいどこから来たものでしょうか。面影が目の前にちらついてとても安眠できません。]
これに続く反歌です。
★ 銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
(巻3−803 山上憶良)
[銀も金も宝石もいったい何になるでしょう。これに勝る宝といえば、子供以上の宝はありましょうか。]
誰にも共感を抱かせる内容で心に響く歌です。子を思う歌で、この歌に勝る歌は他にありましょうか。
4.姉妹兄弟の愛
姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)がその最愛の弟大津皇子(おおつのみこ)を案じて詠んだ歌です。
★ わが背子(せこ)を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 暁(あかとき)露(つゆ)に わが立ち濡れし
(巻2−105 大伯皇女)
[愛しい弟(大津皇子)を大和の国へ帰すので、私は見送って夜更けまでじっと立ち尽くしていましたら、とうとう夜明けの露に濡れてしまいました。]
★ 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
(巻2−106 大伯皇女)
[二人で越えようとしても越えにくいあの寂しい秋の山を、今頃あなた(弟の大津皇子)は、どのようにしてたったひとりで越えて行くのでしょうか。]
大和の都へ帰った大津皇子は、謀反を企てたという罪で殺害されてしまいます。その亡骸は、ニ上山の男岳の頂に葬られました。そこで大伯皇女が詠んだ悲痛の挽歌2首。
★ うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)とわが見む
(巻2−165 大伯皇女)
[この世で人間である私は、明日から、このニ上山を弟だと思って眺めましょう。]
★ 磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありと言なくに
(巻2−166 大伯皇女)
[岩のほとりに生えている馬酔木の花を手折ろうとしたところで、それを見せるはずの弟はこの世にいるというわけではないのに。]
万葉集には、こんな悲劇を詠んだ歌まで残されているのです。
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■第12回 和歌を楽しむ(3)…万葉歌人の詠む叙景歌・叙情歌…
万葉集の部立には、相聞(そうもん)と挽歌(ばんか)の他に、雑歌(ぞうか)があります。「雑」などというと、相聞でもなく挽歌でもなく、その他大勢といった感じであまり良いイメージではありません。しかし、そのなかには素晴らしい叙景歌、叙情歌があります。あるときは自然の美しさに感動し、あるときには感傷に耽る・・・万葉時代の人々の想いが、鮮度を保ちながら素直な形で生き続けています。
注1)読みやすいように句毎に区切り、原文には適宜ふりがなを付しました。
注2)歌の冒頭には★を付け、末尾の( )内には、巻と歌番号、作者名を表記し、[ ]内は訳文です。
注3)読み方、歌の解釈については、諸説ありますが、私の判断で書いてみました。
注4)間違い、偏見もありますので、ご指摘いただければ幸いです。
【1】.自然の美しさを歌い上げる
まず、万葉集の冒頭に登場する額田王の力強く弾みの感じられる歌です。
★熟田津(にきたつ)に船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(巻1−8 額田王)
[熟田津(現在の松山市の道後温泉付近)で、船出をしようと月の出を待っていると、潮もちょうど良く満ちてきた。さあ、漕ぎ出そう。]
続いて、中大兄皇子(後の天智天皇)詠んだ歌。
★海神(わたつみ)の 豊旗雲(とよはたくも)に 入り日さし 今夜の 月夜あきらけくこそ
(巻1−15 中大兄皇子)
[大海原に大きく旗のようになびく雲に、真っ赤な夕日が差し込んで入る。今夜の月は、澄み切って明るく輝いて欲しいものです。]
壮大、雄渾な歌として知れ渡っています。日本画の巨匠・中村岳陵はこの歌をモチーフとして「豊旗雲」(東京国立博物館蔵)を格調高く描きました。この絵を元に織られた綴れ織が皇居の豊明殿の壁面を飾っています。国賓を招いての宮中晩餐会の時には、天皇陛下の後の壁面の「豊旗雲」がテレビでもしばしば放映されます。
★春過ぎて 夏来たるらし 白栲(しろたへ)の 衣干したり 天の香具山
(巻1−28 持統天皇)
[春が過ぎて夏が来たらしい。天の香具山に(目に痛いほど)真っ白な衣が干してあるから・・・。]
夏の到来を爽快に詠んださわやかな感じの調べです。
藤原定家の選んだ「百人一首」には、「春過ぎて 夏来にけらし 白たへの 衣干すてふ 天の香具山」となっていて、万葉集とは異なった雰囲気です。
また、巻10の冒頭にも春の訪れを詠んだ歌があります。こちらは、夕暮れのほのぼのとした天の香具山の情景を詠んだものです。
★ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびく 春立つらしも
(巻10−1816 柿本人麻呂歌集)
柿本人麻呂、山辺赤人などの自然を詠んだ秀歌も巻1には目白押しです。
★東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
(巻1−48 柿本人麻呂)
[東の野原には陽炎が立っていて、振り返って西の方を望んで見ると、月が傾いてかすかな光を放っている。]
★田子の浦ゆ うち出て見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
(巻1−318 山部赤人)
[田子の浦を通って、広々したところに出て見ると、富士の高嶺に真っ白な雪が積もっていた。]
こちらも「百人一首」では、「田子の浦に うち出て見れば 白たへの 富士の高嶺に 雪は降りつつ」となっています。先の持統天皇の天の香具山の歌といいい、こちらの赤人の歌といい、いずれも万葉集の歌の方が心地よい語感だと思えてなりません。
★あしびきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ちわたる
(巻7−1088 柿本人麻呂歌集)
[山の中を流れる川の瀬音が響くとともに、弓月が岳に雲が湧き上っている。]
さわやかな水の響き、澄み切った青空、真っ白な雲と、音響と色彩がみごとな取り合わさった歌です。
★桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市湾(あゆちがた) 潮干にけらし 鶴鳴き渡る
(巻1−271 高市黒人<たけちのくろひと>)
[桜田(今の名古屋市の南部)の方へ鶴が鳴き渡ってゆく。年魚市湾の潮が引いてしまったらしい。鶴が鳴いて渡ってゆく。]
「鶴鳴き渡る」「鶴鳴き渡る」との繰り返しが、心地よく弾んで、リズム感のある歌です。
「鶴鳴き渡る」を読み込んだ歌には、赤人の歌もあります。
★若の浦 潮満ち来れば 湾をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
(巻6−919 山部赤人)
[若の浦に潮が満ちてくると、干潟がなくなるので、鶴は他の葦辺をめざして鳴き渡ってゆく。]
【2】過ぎた昔を懐かしむ歌
なぜか、万葉集の巻1には、過ぎた昔を懐かしむ歌が多く集まっているようです。まずは、天智天皇が造った近江大津の都が、壬申の乱で廃墟と化したことを傷んで詠んだ人麻呂の歌です。
★楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ
(巻1−30 柿本人麻呂)
[ささなみの志賀の唐崎(大津市)は昔と変わらないけれども、むかし大宮人が遊んだ舟は、いつまで待ってもみることはできない。]
★楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも
(巻1−31 柿本人麻呂)
[ささなみの志賀の大きな入り江の水は昔の姿であるももの、ここで昔の人に再びめぐり合うことができるだろうか。できはしない。]
かつては、文武百官が居並んだ栄華の都は、今では滅び去ってしまった。そんな無常観を漂わせています。平家の武将平忠度も「さざ浪の 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」と想いを馳せています。
高市黒人(たけちのくろひと)も昔を懐古して多くの歌を残しています。
★古の 人に我れあれや 楽浪(ささなみ)の 古き都を 見れば悲しき
(巻1−32 高市黒人)
[私が大津の都の人ではないのに、ささなみの古い都をみていると、つい悲しくなってしまう。]
★楽浪の 国つ御神(みかみ)の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも
(巻1−33 高市黒人)
[都の神の心がすさんでしまい、荒れてしまった都をみていると悲しくなってならない。]
「石激る 垂水の上の 早蕨の・・・」と春の躍動感を詠んだ志貴皇子も柿本人麻呂も古き都を偲んで歌っています。
★采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
(巻1−51 志貴皇子)
[かつては華やかな采女の袖をひるがえしていた明日香の風も、都が遷って遠くなったので、今ではただ空しく吹いている。]
★葦辺行く 鴨の羽交(はが)ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ
(巻1−64 志貴皇子)
[葦の間を泳いで行く 鴨の羽に霜が降りて、寒々しい夜は大和の国がしきりに偲ばれてならない。]
★近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
(巻1−266 柿本人麻呂)
[近江の琵琶湖の、夕暮れに立つ波間に飛び交う千鳥よ。お前たちが鳴くと、しみじみとした気持ちになって、遠い昔が思い出されてならない。]
★沫雪(あはゆき)の ほどろほどろに 降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも
(巻8−1639 大伴旅人)
[泡のように消えやすい雪がひらひらと降り続いている。ひとり眺めていると都の奈良でのことが思い出されてならない]
日並皇子(ひなみしのみこ)と呼ばれていた草壁皇子が28歳で崩御された際、その壮麗な御殿の荒れるのを惜しんで詠んだ歌
★ひさかたの 天(あめ)見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門(みかど)の 荒れまく惜しも
(巻1−168 柿本人麻呂)
[大空を見るように仰ぎ見ていた日並皇子の立派な御殿が荒れてゆくのはなんとも惜しいことです。]
【3】感傷的な歌
柿本人麻呂が九州の大宰府から長旅を終えて大和へ帰ってくるとき、明石海峡にさしかかると、故郷の大和連山が見えてきたときに懐かしさが込み上げて詠んだ歌。
★天離(あまさか)る 鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ 恋来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ
(巻1−255 柿本人麻呂)
[遠く離れた田舎から、懐かしい大和に思い焦がれて帰って来ると、明石の海峡から故郷の大和の山々が見えてきた。]
古今集の羇旅の部 409 「読み人知らず」にも「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に島隠れいく船をしぞ思ふ」と詠まれています。
★もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも
(巻1−264 柿本人麻呂)
[宇治川の網代木にたゆとう川の波は、ゆらゆらと動いていて定まらない。いったいどうなるのだろうか。その行方も判らない。]
「もののふの八十」は「宇治」の枕詞。鴨長明の「方丈記」の冒頭を思い出させる歌です。
★旅にして もの恋(こほ)しきに 山下の 赤(あけ)のそほ船 沖に漕ぐ見ゆ
(巻1−270 高市黒人)
[旅先だから、なんとなく物寂しい。ぼんやりと山の下の海を見ていると赤く塗られた舟が沖に向って漕いで行くのが見える。]
九州の大宰府で小野老(おののおゆ)が、奈良を偲んで詠んだ歌。
★あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり
(巻1−328 小野老)
[奈良の都は、咲いている花の匂い立つように、今は華やいでいる。]
★ももしきの 大宮人は 暇(いとま)あれや 梅をかざして ここに集へる
(巻10−1883 作者未詳歌)
[大宮人は暇があるからだろうか、梅の花を髪に飾ってここに集まっている。]
「新古今集」春の下に山部赤人の歌として、梅が桜に代わって登場しています。「ももしきの 大宮人は 暇あれや 桜かざして 今日も暮らしつ」
霞がたなびいても、風が吹いても、ひばりが鳴いても、感傷的になって歌が生れてしまう。捉えどころない哀しみ、春の愁い、やるせなさをしみじみと大伴家持が巻19で続けて詠んでいます。万葉集のセンチメンタルな歌の決定版ともいうべき歌です。
★春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも
(巻19−4290 大伴家持)
[春の野原に霞がたなびいていて、なんとももの悲しい。夕暮れの淡い光のなかで鶯が鳴いている。]
★我がやどの い笹群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも
(巻19−4291 大伴家持)
[私の家の竹の林を渡る風の音がかすかに聞こえる夕べです。]
★うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば
(巻19−4292 大伴家持)
[うららかに淡い日の照るのどかな春の日。ひばりが囀り高く舞い上がる。ひとり物思いに沈んでいると悲しくなってしまう。]
しかし、万葉集の最後を締める家持の歌は、センチメンタルな歌ではありません。万葉集の永い命を願って祈りが込められているような歌です。
★新しき 年の初めの 初春の 今日の降る雪の いやしけ吉事(よごと)
(巻20−4516 大伴家持)
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